シュリ日和

まいにちに生きる

疑問




さて、東京オリンピックは果たしてどうなるだろうか?


小さい頃、不思議に思っていたことがある。それは、オリンピックで金メダルをとった人が、本当にそのスポーツの世界一なのかな?ということ。

オリンピックに出場していない、金メダリストより、凄い潜在能力を持った人間はこの世界のどこかにいるんじゃないかな?


この不思議は、もしかしたら、わたしが人生で初めてもった疑問だったのかも知れない。


生まれた瞬間から、わたしたちはできあがった創られた世界のなかで生きてきた。

点と点が次々繋がり出し、幼心に感じた疑問も、答えが出始めている。


**


勉強は嫌いだった。

勉強が好きになれなかった理由は、教えてくれる先生が好きじゃなかったことが大きい。


かなり関連性が見えないところからこの話に切り込むと、故野村克也監督という人がわたしは好きだったのだが、昨年監督が亡くなった時に、古巣ヤクルトの球団マスコットであるつば九郎が、『のむらかんとく、やきゅうを大好きにさせてくれて、ありがとうございました!』と、故人に向けそんなメッセージを発信した。

つば九郎は着ぐるみを着たマスコットだ。マスコットが言ったこのメッセージに、わたしはいたく感動してしまった。

これが、教師と教え子の関係性のお手本と思えたからだ。


先生が好きなら勉強も好きになるよ。

そんなの理屈抜きにそうなるよ。


何が言いたいかというと、職業って、志なくしてなるべきじゃないんじゃないか?ということ。志ってちょっと堅いけど、要するに、根本にそれが好きであること抜きに、成り立たないんじゃないかってこと。


教師が生徒に暴力を振るって自殺に追い込むなんてことが起きることを考えると、どう考えてもそんなことする奴は、人間として未熟としか思えない。

成長著しい子どもたちの教育に携わる側の人間が、その子どもたちよりも寧ろ精神が未熟であるという事実。大学を出て、教員免許を取ったというだけで、人間として成長できるか?と言ったら、そんな事は無いと思う。そして、それだけで、真の教育者になれるわけなどないと思う。


わたし自身が小学校5~6年の頃、担任の女教師に言葉のイジメを受けたことがある。

来る日も来る日も、これみよがしに、クラスの生徒の前で嫌味を言われ続け、生きた心地がしない日々を過ごした。

権力の前で、ただただ黙り込むことしかできず、挙げ句に、親や友達を頼ることができなかったわたしは、その苦しみをずっとひとりで抱え続けた。その時受けた傷は、わたしから自尊心や自信を奪った。中学に入った頃には、もう二度とあんな目には遭いたくないから''大人しく目立たなくいよう''と、無意識に感情を胸の奥に押し込めた。


あの時の自分をわたしは大人になり、思い切り抱きしめた。悲しいけど、誰も抱きしめてくれなかったからだ。

『苦しかったね、よくひとりで乗り越えたね、頑張ったね。』と。


正直言ったら、学校教育なんてクソだな、と思う。

本当に志をもって先生になった人がいないとは思わない。けれど、その数は限りなく少ないと思う。

大体、勉強ってどこでもできる。この時代ならなおのこと、スタディサプリの先生の授業の方がよっぽどタメになることもあるだろう。

ならば何故、学校の先生に意義があるのか。子どもたちがやがて自立して生きていくために必要となる、人間力の礎を築くための心のやりとりを、尊敬できる人物と実際に会って交わすという行為が必要だからじゃないのか?


話を発展させると、学校は勉強だけするところではない。

先生だけでなく、気の合う子、合わない子、いろんな人と関わることで学びを得る場であるから、学校には行く意味はあると思う。

昔は、今より分かりやすく、男の子だったら、殴り合いの喧嘩をしたり、女の子なら、色んな自分と違うタイプの子を雰囲気で察したり、学んでいった。


だけど、現代ってどうなの?と思う。


学校の中でも誰とも関わる気が無い子は増えてるし、ただ卒業という肩書き?が欲しいがために、学校に通うことに意味を見出すことなどしない(できない)子も多い。大学進学が最終目的なら、それ以前の学校はただの通過点でしかない、そんな子どもたちを実際見てきたから思う。


本当に友だちだと言える子の存在がどれだけの子にいるのだろう?

本気で関わり合って、分かり合い、助け合える友だちとして、絆を深める心の交流ができている子は、クラスに何人いるだろうか?

つば九郎が野村監督に向けた言葉のように、シンプルだけど、温かい本当の感謝の気持ちを先生に対して抱ける子はどれだけいるだろうか?


まずい。熱くなってる。


どの話をとっても言えることだが、一度に考えて述べられる意見など、その物事の一側面でしかない。

だから、裏を返したり、見る角度を変えて捉えられてしまえば、簡単に批判や否定をされてしまう。批判や否定を避けてる以上、本当の自分の考えを発信することなんて怖くてできやしないだろう。

シンプルに言うと、わたしは今日こう思った。(わたしは今こう思っている)たったそれだけのことが、どうしてこんなにもなしがたいのだろう。


わたしはズルい。

このブログのなかでどんなに叫んだって、批判や否定の声はわたしの元には届かない。そう、安全であることをわかっているからできている。

だからこそ、自分の考えを発信してる人をわたしは否定も批判もしない。仮に自分の考えとまったく合わないとしても、大事なことは内容ではないからだ。その人が行動していることが既に凄いことだってわかるから。


少しずつでも、ビビりながらでも、自分の意見というものを言える人間にわたしはなりたい。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。






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雨上がりの夕空











肉じゃが

先月、料理人生のなかで一番美味しい肉じゃがを作れた。


参考にしたのは、料理のお兄さんリュウジの作り方だ。


ポイントは無水調理。

野菜から出る水分と調味料だけで味付けをしたら、短時間でもじゃがいもにしっかり味が染みて、一体今までの肉じゃがは何だったんだ!というほど、出来上がりに差ができた。本当に美味しくて感動しながらパクパク食べた。


そう、これはつい先月の話。


美味しい肉じゃがの記憶が刻まれたことで、『よし、今晩は肉じゃがにしよう!』と、意気込んで作り始めた。

レシピを検索する。検索画面トップにリュウジの動画が上がっていたことは目で確認した。

しかし、なぜか今日のわたしは、リュウジの動画はスルーし、クラシルかなんかのレシピに目を通す。クラシルの普通のレシピと作り方で作り出す。

この時点で、リュウジの肉じゃがが美味しかったことを忘れている。記憶にあるのは、わたしは美味しい肉じゃがが作れるようになった!という、一番大事なポイントを端折ったところだけだった。


出来上がった肉じゃがを食べる。

『…あれ?……何かが違う。』

先月の肉じゃがのじゃがとまったく味染み加減が違うではないか。

なぜだ?!

わたしは美味しい肉じゃがが作れるようになったのでは無かったのか?!


記憶を辿る。

うっすらリュウジの動画が頭の中で再生される。


『ああー!!!あの肉じゃがは、リュウジの作り方だったー!!!……ガーン。』


わたしには、こういったことがよく起こる。理由は気分で行動しがちってとこ。

今日は特にちょっと慌てて作り始めたことで、早く仕上げようと、ゆっくり丁寧を無視して、適当になっていた。

最近、ゆっくり丁寧を心がけた結果、料理がおいしく仕上がることが増え、調子に乗っていたのかもしれない。


今日の肉じゃがの失敗はショックがデカかったので、戒めのためにここに書き残すことに。


肉じゃがはリュウジ!


冷蔵庫に大きく書いたメモを張った。




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平和かっ!!






予祝

旧暦元旦に加え、水瓶座新月


新しいはじまりのとき。


予祝祭り!

勝手に予祝祭りをはじめた。

2月に入ってから、もう12日も経ってるなんて信じられないスピード感だ。


昨日、今日は特に、夢やいろんなところから大事なメッセージが届いている。

ビッグリターンを受け取ると決めたら、バレンタインのお菓子はもらうし、マリアージュフレールの紅茶は届くしで、素敵なお茶会の思い出も増えていく。

譲り受けた当初、わたしには不釣り合いと思われたアラビアの食器やイギリスのティーカップも、今では自分に馴染み出した。いいものを手にすると、いいものに釣り合う自分に自動的に引き上げられていく。


……わたしは一昨年の7月から12月まで、無職の半年間を過ごした。

その時やっていたことは、毎日ブログを書くことと、''ありがとう日記''をつけること、散歩、神社めぐり、などなど。


あの半年は、長い年月の間に、自分に染み付いた垢を落とすため、ひたすら浄化の日々を過ごした。

楽しく嬉しい体験もしたし、同時に、過去の記憶に苦しめられた時もあった。『本当にこのままで大丈夫だろうか?』と、何度も何度も思ったし、不安に押し潰されそうな夜もいくつも超えた。


けれど、そんなリアルな日々をブログに書き続けることで、わたしは頼りない自分の心を保っていたように思う。

本当に少しずつだったけど、徐々に本来の自分とはどんな姿かが見えてきて、銀行口座の残高が1万円を切るところまで落ちた頃には、何かが変わり始めていた。


あの頃のわたしが掲げたスローガンは、''無職なのに優雅''というもので、黙っていれば、他人には無職なんて絶対に思われないほど優雅に振舞って生きてみせよう!なんて、アホみたいな遊びを心の中でひとり密かに楽しんでいた。

正直、わたしの思惑通り、無職なんて思われたことも無かったし、マジで優雅に思われたりして、ちょっと可笑しかった。

だって、銀行口座の残高は1万円を切っていたんだから。笑


そんな空白の半年のおかげで、だいぶ幻想から目を覚ますことができたと思っている。その後も様々な紆余曲折を経て、めでたく2021年を迎えた。


今でもわたしは、わたしの選んだ生き方を紙一重だと自覚しているし、これから先のことは、まだわからないのが本当のところではあるが、ひとつだけ確かなことは、自分で自分の生き方を選択できなかった10年前よりも、今の方がずっとずっとずーっとしあわせだということ。

全てを自己責任と認めてからの方がよっぽど潔く清々しい生き方ができている。

究極ダメになっても、人任せの人生をただ死んだように生きていくよりは、わたしにとっては、こっちの天国か地獄か、のような人生の方がきっと嬉しいんだろう。


だから、ここまできたら、あとは何が起きても大きな括りで見れば喜びでしかない。


なぜ今この話をしているかと言うと、もしかしたらわたしの経験が、あなたの心を少しでも軽くすることができるかも知れない、と感じているからだ。

見当違いならそれはそれでいいし、あなたがどんな経緯でこのブログを見てくれているかはわからないが、これも何かの導きかも知れないから。


どんなカタチでも、みんなで協力し合って、この歪な世の中を、大きな時代の転換期のいま、時代と時代を渡っていけたら、と願っている。






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可愛い赤いものたち





希望


明るい気配が大気に充満しているのを
感じている。

タイトルはそんな気持ちを表現した。

一昨日、久しぶりに人と会い、街を歩き、会話をした。
立ち寄った思い出のカフェで、思いがけず、甘い思い出の席に座ることに。
お店のスタッフは知らない顔ばかりで、なんだかその出来事は、つい数年前に確かにあったこととは思いがたく、まるで前世のことのよう。
あの時の自分は、今の自分とはまるで別人で、不思議なきもちになる。

季節は夏だった。
夏はいつもどこかからふと現れて、どこかへと消えてしまうのかも知れない。


さて、わたしは自分の人生の伏線回収の時期に入った。伏線を張ったつもりもなければ、回収の時期を狙ったつもりも一切無いが、何か、わけもわからず真剣に生きてきた結果、はからずとも、ベストタイミングと思われる今を迎えている。

自己価値は上がりつづけ、価値ある自分に見合ったものが天から与えられるであろうことを、なんの疑いの余地もなく信じ切っている。

このブログをずっと読んでくれてる人ならわかると思うが、わたしは特に何か大きな行動を起こしてはいない。目に見える努力はほぼしていない。だから、それに比例して、定期的な収入は減ることはあっても増えてはいないし、こうして細々とではあるが、続けてるブログもあまり読まれていない。つまり、世間一般的に価値が高いとされているものは、特に手にしていない。
成功のセオリーの逆を行っている。

それなのに、自己価値が右肩上がりなのは、時間を気にせず暮らせる自由が今のわたしにはあり、そんな恵みを毎日噛み締めるなかで、いま自分にあるものに、感謝することが日常になり、心の赴くままに、好きなことを好きな時に楽しんだりできる安定した精神状態を手に入れたことが、最大の理由だと思う。

わたしには、世間に認められる肩書きは一切無いが、自称〇〇です!と、胸を張って言えるものはいくつかある。

たとえば、
自称ヒーラーです!とか、
自称詩人です!とか、
自称カメラマンです!とか、
自称ブロガーです!とか、
自称家庭料理人です!とか、

まあ、単に好きなことで続けてきたことを勝手に言い切ってしまうという、新手な手法だ。これなら、誰でもが自分の肩書きを作って名乗れる。

未来創造は、いま目に見えている現実ベース+いまのあなたベースにはしないことが大事だと思う。
なぜなら、そこには、最初から半端なく制限があるから。
いまあなたがあなただと認識しているあなたは、恐らくほぼ幻想である可能性が高いから、幻想の創造では真の現実化は難しい。となる。

これは、シュピリチュアル的な見解。

最近、自分軸と他人軸のわかりやすい説明をまとめたが、すでにそういったものをYouTubeで発信してる人が五万といる中で、同じことはしたくない。
わたしらしいオリジナリティ溢れる他者貢献の仕方をこれから遊びながらみつけていくつもりだ。

わたしは遊び仲間が欲しい。

だから、もし、あなたがまだ幻想のあなたのまま生きているのだとしたら、あなたという原石に戻すお手伝いがしたい。
そして、原石に戻ったあなたが、わたしのように、自称〇〇です!とか、他人にバカにされることも想定内で、元気に言えるようになったら、ぜひ一緒に遊びたい。

そんな未来創造をしている。

そう!今日は建国記念日だった。
一昨年、建国着想記念日というタイトルのブログを朱里日記のなかで書いた。あれはなかなかいい内容に纏められたと思っている。伏線回収の一角。

朱里日記/建国着想記念日

これからひとつずつ本物の夢を現実化していく。



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#AUX BACCHANALES 銀座




貫く

昨日の文章を読み返す。


完全に真面目モードに入っている。

志だけやたらと高い。まったく理想に体が追いついていない。思考の偏り。バランスがとれていない。笑えない。等々、思うところがいくつもあった。


無論、ここで述べたことは、昨日の自分や最近の自分が思っていることであることに偽りはなく、今の自分が思うこととまるで違うわけでは無いのだが、学びとしては、やはり、話の最後は笑える着地がいいな、ということ。

だから、カマたくから本当に大事なことを教わるんだとしたら、あの動画で深刻な問題もふざけて笑わせてくれたこと、そっちに着眼点を置くべきだった。


という、昨日の自分への反省。


話を若干変えながらも続けるが、最近の店長の楽しみは、クドカン(宮藤官九郎)×長瀬(長瀬智也)の新ドラマ''俺の家の話''を見ることらしい。

実は、わたしもクドカンのドラマの大ファンで、かつて一世を風靡した『池袋ウエストゲートパーク/I・W・G・P』や『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』『あまちゃん』など、彼のヒットドラマは大抵目を通してきたが、中でもわたしのイチオシは、『うぬぼれ刑事』という作品だ。

キャストもストーリーも大好きな作品。

うぬぼれ刑事は、病んでた時代のわたしの心を支えてくれた。そう、笑えない時に、笑わせてくれたのだ。

ついこの間、ロックと笑いで世界を変えたい!と声高らかに言ったばかりだったじゃない。

すぐそうやって忘れるんだから。

ほんとにしょうがないな♡

許しちゃう。


やっぱり、好きなことを考えてる(やってる)時間はハッピーだ。それをやる自由が与えられているのだから、人の言うこと、やること、世界観に引っぱられることなく、自分の好きに集中したい。


最近のわたしは理想を語るばかりで、行動がともなっていないが、それを悪いとは感じていない。単に、行動したい欲求に欠けているだけだと思うからだ。

行動したい!という自然な欲求の高まりに身を任せることを選んだら、なかなか動き出さない自分と出会った。私はいま、恐らく過去一、自分の正直な声を聞いていると思う。

やりたくない事を無理してまでやらない。それは本当にやりたいことなのか?を自分に聞く習慣がついてきた。人に寄せない。だいぶわがまま。いまの素の状態がそれ。


狂った世の中に正当な怒りが湧く。

素の状態になると、怒れることがわかった。

わかったから、それだけで十分。

怒りにエネルギーを費やさない。

怒りが元にある時も、最終的に喜びに繋げるためにエネルギーをつかいたい。


二度寝できる喜びを、温かいシャワーを毎日浴びれる幸せを、食べたいものが食べれる恵みを、好きなことがある楽しさを、好きな人がいる嬉しさを、しっかり実感したいと思う。


それを感じている時の自分は、とてもほっとしていて、ニッコリしている。


ニッコリしている自分を愛したいと思う。


流れに任せると決めたことを、行けるとこまで貫いてみたい。





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…まぁ、やってごらん。




姿勢


連日予定はないのに、忙しい。


シュピリチュアル文献を纏めよう!と決めたことから、生きることにより一層真剣になっている。iPhoneのメモ帳に、毎日の気づきからの自分の考えを書き連ねる。2~3日を目安にきちんとノートにも清書する。これは多分、わたしの命が尽きるまで続く終わりのない旅だ。ライフワーク。誰に頼まれたわけでもないから、いつやめてもいい。誰に読まれるわけでもないから、なんの役にも立たない。それでも、ささやかでもいいから、命を与えられ、生かされていることに感謝の行為を捧げたい。


カマたく(興味があれば調べてください)のツイートを読み、動画を見て考えさせられた。

大切な人が死にたいほどの苦しみを抱えていたことに気づけなかった自分。何もできなかった自分を責めた後に、そこで止まらずに行動した彼を、すごいな、と思った。


何もできないのと、何もしないのは違う


その通りだ。

ひとりにできることなんて、たかが知れてるのかもしれないけど、大事なことからは目を逸らさずに考えて行動したい。大きな声をあげる勇気はわたしにはない。だから今、小さな声をここであげる。小さな一歩が、次の小さな一歩を踏み出す力になるように。


ほんとうに人のためを思う

ほんとうに人のためになる


連日、ない頭を捻って、考えつづけている。


もっともっと、誰でもがそのままでいい、と思えるような、優しさで見守りたい。

一日の終わりに、今日涙を流して生きた人に想いを馳せる時間を過ごす。

足るを知ったら幸せでしか居られないことが身に染みてわかる。

自分に与えられている恵がどれほど豊かであったか、気づけなかった時の分も含めて、ありがとうを天に伝える。


大事なことをすぐに忘れる自分を責めるのではなく、活かして生きること。


今この瞬間に生きること。



**



今日の気づき。


すべての物事において、真実は何か?ということを証明することはできない。さらには、真実を必ずしも信じなきゃいけない決まりはない。

何を信じて生きるかは自分次第。

誰を信じて生きるかは自分次第。

指標となるのは自分の感覚のみ。


生き方のセンス。

生き様の美学。

そこに現れるもの。


この人を(この考えを)信じたい!と思う自分に賭ける。責任は信じた自分にある。


2021年2月6日今の気持ち。






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静物