さて、東京オリンピックは果たしてどうなるだろうか?
小さい頃、不思議に思っていたことがある。それは、オリンピックで金メダルをとった人が、本当にそのスポーツの世界一なのかな?ということ。
オリンピックに出場していない、金メダリストより、凄い潜在能力を持った人間はこの世界のどこかにいるんじゃないかな?
この不思議は、もしかしたら、わたしが人生で初めてもった疑問だったのかも知れない。
生まれた瞬間から、わたしたちはできあがった創られた世界のなかで生きてきた。
点と点が次々繋がり出し、幼心に感じた疑問も、答えが出始めている。
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勉強は嫌いだった。
勉強が好きになれなかった理由は、教えてくれる先生が好きじゃなかったことが大きい。
かなり関連性が見えないところからこの話に切り込むと、故野村克也監督という人がわたしは好きだったのだが、昨年監督が亡くなった時に、古巣ヤクルトの球団マスコットであるつば九郎が、『のむらかんとく、やきゅうを大好きにさせてくれて、ありがとうございました!』と、故人に向けそんなメッセージを発信した。
つば九郎は着ぐるみを着たマスコットだ。マスコットが言ったこのメッセージに、わたしはいたく感動してしまった。
これが、教師と教え子の関係性のお手本と思えたからだ。
先生が好きなら勉強も好きになるよ。
そんなの理屈抜きにそうなるよ。
何が言いたいかというと、職業って、志なくしてなるべきじゃないんじゃないか?ということ。志ってちょっと堅いけど、要するに、根本にそれが好きであること抜きに、成り立たないんじゃないかってこと。
教師が生徒に暴力を振るって自殺に追い込むなんてことが起きることを考えると、どう考えてもそんなことする奴は、人間として未熟としか思えない。
成長著しい子どもたちの教育に携わる側の人間が、その子どもたちよりも寧ろ精神が未熟であるという事実。大学を出て、教員免許を取ったというだけで、人間として成長できるか?と言ったら、そんな事は無いと思う。そして、それだけで、真の教育者になれるわけなどないと思う。
わたし自身が小学校5~6年の頃、担任の女教師に言葉のイジメを受けたことがある。
来る日も来る日も、これみよがしに、クラスの生徒の前で嫌味を言われ続け、生きた心地がしない日々を過ごした。
権力の前で、ただただ黙り込むことしかできず、挙げ句に、親や友達を頼ることができなかったわたしは、その苦しみをずっとひとりで抱え続けた。その時受けた傷は、わたしから自尊心や自信を奪った。中学に入った頃には、もう二度とあんな目には遭いたくないから''大人しく目立たなくいよう''と、無意識に感情を胸の奥に押し込めた。
あの時の自分をわたしは大人になり、思い切り抱きしめた。悲しいけど、誰も抱きしめてくれなかったからだ。
『苦しかったね、よくひとりで乗り越えたね、頑張ったね。』と。
正直言ったら、学校教育なんてクソだな、と思う。
本当に志をもって先生になった人がいないとは思わない。けれど、その数は限りなく少ないと思う。
大体、勉強ってどこでもできる。この時代ならなおのこと、スタディサプリの先生の授業の方がよっぽどタメになることもあるだろう。
ならば何故、学校の先生に意義があるのか。子どもたちがやがて自立して生きていくために必要となる、人間力の礎を築くための心のやりとりを、尊敬できる人物と実際に会って交わすという行為が必要だからじゃないのか?
話を発展させると、学校は勉強だけするところではない。
先生だけでなく、気の合う子、合わない子、いろんな人と関わることで学びを得る場であるから、学校には行く意味はあると思う。
昔は、今より分かりやすく、男の子だったら、殴り合いの喧嘩をしたり、女の子なら、色んな自分と違うタイプの子を雰囲気で察したり、学んでいった。
だけど、現代ってどうなの?と思う。
学校の中でも誰とも関わる気が無い子は増えてるし、ただ卒業という肩書き?が欲しいがために、学校に通うことに意味を見出すことなどしない(できない)子も多い。大学進学が最終目的なら、それ以前の学校はただの通過点でしかない、そんな子どもたちを実際見てきたから思う。
本当に友だちだと言える子の存在がどれだけの子にいるのだろう?
本気で関わり合って、分かり合い、助け合える友だちとして、絆を深める心の交流ができている子は、クラスに何人いるだろうか?
つば九郎が野村監督に向けた言葉のように、シンプルだけど、温かい本当の感謝の気持ちを先生に対して抱ける子はどれだけいるだろうか?
まずい。熱くなってる。
どの話をとっても言えることだが、一度に考えて述べられる意見など、その物事の一側面でしかない。
だから、裏を返したり、見る角度を変えて捉えられてしまえば、簡単に批判や否定をされてしまう。批判や否定を避けてる以上、本当の自分の考えを発信することなんて怖くてできやしないだろう。
シンプルに言うと、わたしは今日こう思った。(わたしは今こう思っている)たったそれだけのことが、どうしてこんなにもなしがたいのだろう。
わたしはズルい。
このブログのなかでどんなに叫んだって、批判や否定の声はわたしの元には届かない。そう、安全であることをわかっているからできている。
だからこそ、自分の考えを発信してる人をわたしは否定も批判もしない。仮に自分の考えとまったく合わないとしても、大事なことは内容ではないからだ。その人が行動していることが既に凄いことだってわかるから。
少しずつでも、ビビりながらでも、自分の意見というものを言える人間にわたしはなりたい。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
雨上がりの夕空