シュリ日和

まいにちに生きる

安心感

一昨日は27109歩歩いた。

最近の一日平均歩数は、約5千歩なので、5倍以上歩いたことになる。


よっしゃ!運動不足解消したー!

という喜びも束の間、今朝は一歩も動きたくなく、しっかりと反動を食らっている。


都会を離れ、自然のなかに入る。

太陽の光を浴び、風に吹かれ、鳥の声をBGMに、スマホを手放し、山や河原を歩く。


身体をしっかり使うと、人間として生きてることを実感できる。


最近、人間愛という言葉が気になっている。


恋愛というと、対象の恋人ひとりへ向けた愛だし、家族愛というと、血縁の家族へ向けた愛だし、愛国心とかは国に対する愛だ。

もっと色々あると思うけど、こういった小さな愛のカテゴリー内で、大きな人間愛を生きるための学びを得ているのだろうか。


わたしが思うに、ひとりひとり、本当は自分の考えとか思いやりの心とか優しさってちゃんとある気がする。


だけど、それらを安心して表現できる環境や場は限られていて、その、限られていて、と感じる原因は、源の人間愛から派生した小さな愛の範囲内、人間関係のなか、ある程度自分と相手を理解しあえている自信がある同士の間でしか、考えや気持ちをスムーズに表現し合うことが困難な点にある。


受け入れてもらえる安心感がないと、人はなかなか素の想いを外に出せないのではないか?


だって、拒絶されたら怖いから。

優しい気持ちも誰もがそのまま受け取ってくれるとは限らないから。

だから、傷つくことを恐れ、無関心を装うようになってしまうのではないか?


わたしは外国で暮らした経験がないため、日本と外国の文化の違いをわかりやすく伝えられないのだが、特に昨今の日本はそういったバックグラウンドが文化に根付いている気がする。


核社会になってからというもの、人間関係は希薄になり、おとなとこどもの距離はどんどん開き、人として大事なことを学ぶ機会のないまま、育っていくこどもたちが増えた。

人を信用、信頼できない親(おとな)に育てられたこどもたちは、一体どうやって、人を信じることを信じられるようになるのだろう。

傷ついて育ったこどもたちは、迷い、悩み、苦しみながら、自分でひとつひとつ学んでいくしかない。


わたしの理想は、はじめて会った人も、家族も、分け隔てなく同じ気持ちで関わりあえる社会を実現することだ。平等なんて言うまでもなく、それが当たり前として、気持ちのいい挨拶を笑顔で交し、他愛ない会話をし、それぞれの生活を営む。


人間は誰もがひとりだ。

どんな関係にあろうとひとり。

それは、寂しくも悲しくもない、ただの事実。

ここからスタートしないと、小さな範囲内でしか、繋がり合えないグループ分けされた人間関係で生きるに留まってしまう気がする。


感情があるということは素晴らしいことだと思う。ひとりだから誰かを想う。愛しい気持ちを抱き合うことができる。それでも、相手の自由を縛ることはできない。できないからこそ、想う気持ちに尊さがある。


親とこどもの関係もそのように思う。

親がこどもにできることは、究極、衣食住の環境の提供のみだと思う。

親へ無条件の愛を与えてくれるこどもの方が寧ろ大きなしごとをしてくれている。親はこどもから愛を受け取り『ありがとう』と返せばいいのだと思う。


それが教育の始まりだとすら思う。


何故それが教育かと言ったら、『ありがとう』という言葉には安心感を与える効果があるからだ。小さな頃から当たり前に『ありがとう』を受け取ることができて育てば、誰に対しても、素直に自分の気持ちを表現できる人になれると思う。

わたしは、おとながこどもたちに教えられることなんて、ほぼ無いと思っている。教えられなくとも、こどもたちは自分で学ぶ力をもっているからだ。


社会における安心感の欠如が、人間愛の歯車を狂わせている気がしてならない。顔色を伺うことから逃れられない社会なんて、いい加減終わらせたい。


とかなんとか、そんなことをここ最近考えていた。


じゃあ、そんな理想を実現するには、わたしは何をすればよいのか?

自分がその日その日に、会った人たちに、笑顔で『ありがとう』と伝えることと、『ありがとう』を受け取ることを意識して過ごすことかな、と思う。

なんでもない自分にもそれならできるから。


今回は、ちょっと自分の頭の悪さを露呈するような文章になってしまったが、今の自分が思ったことは、情けなくても書き残したいので、このような拙い文章を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。



f:id:like_nanohana:20201028001824j:plain


秋の河原