シュリ日和

まいにちに生きる

黙祷




熱海の土砂崩れから今日でひと月が経つ。

一番被害が甚大だった伊豆山地区にある家に、縁あって数年前から何度も足を運んだ。

ちょうど3年前の7月、わたしはその家でひとり暮らしを体験させてもらう機会を与えてもらい、離婚から約2年半経ったことを機に、新たな人生を模索しようと、自分と向き合う日々を過した。

毎日伊豆山神社へお参りすることを決め、真夏の日差しに照らされ、汗だくになりながら石段を上る中、''自叙伝ブログをやってみたい!''という閃きのようなものを受け取った。

そこから約1年後(けっこう時間かかってますw)の夏至の日に、このブログの発祥である朱里日記という、魂の冒険記なる、自叙伝ブログを始めた。それは、わたしにとっては本当に大きな変化の一歩となった。

20歳そこそこで結婚して、30代も後半になるまで、主婦業とパートしかほぼほぼ経験の無かった人間が自己表現をするということに、どれだけの勇気が必要だったかは、わたしと同年代の人や、似たような経歴のある人にしか、なかなか分からないと思う。

わたしは余りにも世間知らず、経験不足のまま年齢を重ねてしまったため、いつも自分に自信が無くてビクビクしていた。子育ても、苦しさ9割、喜び1割程度のアンバランスさで、なんとか綱渡りのようにこなしていたような感じだった。

それが、離婚を機に、自立に邁進し、巻きではあったが、社会に揉まれる経験を経たことで、新たな出会いのなか、与えられたチャンスを活かすべく、徐々に勇気を振り絞って行動できるようになっていった。

そんな大きなキッカケとなった地である熱海と伊豆山は、わたしにとって、感謝に絶えない特別な場所なのである。

その特別な場所が、あのような被害に見舞われた。何度も自分の足で歩いた土地の家々が、嘘のように流されてしまったことに、ただただ、呆然とするしかなく、東日本大震災が起きた時に、来る日も来る日も恐怖に苛まれたことを思い出していた。

あの時に学んだいくつかの教訓は、まず落ち着くこと。そして、自然と共に生きるとは、生も死も、人間の営みのなかにただ静かに流れているものだということ。いつ、どこでも、災害が起きる可能性はあるということ。他人事では無いということ。誰かや何かを恨んでも何の意味も無いということ。当たり前などひとつも無く、なんでもないような日常のすべてが奇跡だということ。


わたしにまずできることは、これまで生きていた人、生きていた場所に、敬意を込めて『ありがとうございました。』と祈ることだ。ボランティアとか、寄付金とか、そういったことは次の段階の話。もちろん、復興まで、ふるさと納税然り、できる支援はこれからしていくつもりだ。ただ、最も大事にしたいことは、お世話になったことへの感謝の気持ちだ。そんな気持ちなんて目に見えないもの、困ってる人の役に立たないじゃないか!と言われたら、本当にそうだとも思う。

だけど、わたしが今もし伊豆山に暮らしているのだとしたら、もっと違う身体を使った支援を間違いなくするだろうけど、わたしは今東京にいるのだ。災害が起きた時は、起きた場所で生きる人々が手を取り合って助け合うことが何より早い。それは、どこで起きたとしても、同じことだと考えている。


祈りの力をわたしは信じている。

ひとりひとりの力は小さくとも、温かい真心の想念は、想像よりずっと大きなエネルギーとなって、癒しを起こすと思う。

だから、わたしはお世話になった熱海と伊豆山へと光を送りたい。


熱海の神様。伊豆山の神様。


ありがとうございます。

ありがとうございます。

ありがとうございます。




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