シュリ日和

まいにちに生きる

雪どけ




連日寒い日が続いている。風も強い。けれど、日差しは確実に春へと近づいていることを感じさせる明るさだ。

最近、毎朝太陽を2~3分凝視することを続けている。太陽と真っ直ぐに向き合う。しっかりと光の中心をとらえる。すると、目の錯覚なのか、皆既日食のように太陽の輪郭だけが浮き上がってくるように見えることがある。それはとても不思議な現象で、まるで太陽が天空の世界の入口のように思えてくる。そこからUFOが出入りしているんじゃないだろうか?などという妄想が頭を過り、自分には肉体があるということを意識していないと、うっかり持っていかれそうになる気がして、心のなかで『アブナイ、アブナイ、しっかりして!』と自分へと声をかけている。


私は、生まれ育った土地への思い入れというものが皆無でありながら、生まれてこの方、何故かずっと同じ地域に暮らし続けてきた。子どもの頃は、母の生家がある千葉の田舎に年に何度か遊びに行くことが本当に楽しみで、その時は、虫を採ったり、どデカいガマガエルを平気で素手で捕まえたり、春には土筆や草花を摘んだり、野山を走り回ることが最高に至福の時間だった。だから、大自然のなかで生まれ育った人が、年頃になって都会(東京)へ出てきて、結婚してやがて自然のなかへ帰って行くことに、ものすごく憧れを抱いていて(まぁ、実際はそんな人も多くはないのだろうけど、、)なぜ自分は東京生まれの東京育ちなのだろう?と、長年、人生ひとつ損している気分でいたのだが、最近このことにも意味があったのかも知れない…と思い始めた。

それは、もし私のようなタイプの人間が大自然のなかで生まれ育ってしまっていたら、勝手に宇宙と繋がるようなことになって、例えるなら、トトロのメイのように、好奇心の赴くままに行動して、精霊たちと森で出会ったり、神隠しにあったりして、とても人間として生きることがままならなくなっていたのでは無いか?そんな風に想像できるからだ。

東京の下町育ちだったからこそ、私は永き眠りについていられたのだろう。きっとそれは、人間を生きる自分を守る術だったのだ。(グランディングってこと)


先日の満月の日のこと。不意に、『……ああ、月から迎えが来てしまうかもしれない。帰りたいけど、帰りたくない。』そんなことを感じた。頭がおかしいと思われてしまうかな?だけど、高畑勲監督の''かぐや姫の物語''を観た女の人(過去生女の人も)で、この気持ちがわかる人、私のほかにもきっといると思うんだよなぁ〜…。

いのちの記憶という歌の歌詞を知っていますか?あれは、本当に記憶なんだと思う。憶えている、はっきりと。決して消えない光のような記憶の歌。



**



あなたに触れた よろこびが
深く 深く
このからだの 端々に
しみ込んでゆく

ずっと 遠く
なにも わからなくなっても
たとえ このいのちが
終わる時が来ても

いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で

あなたがくれた ぬくもりが
深く 深く
今 遙かな時を越え
充ち渡ってく

じっと 心に
灯す情熱の炎も
そっと 傷をさする
悲しみの淵にも

いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
懐かしい記憶で

いまのすべては
過去のすべて
必ず また会える
懐かしい場所で

いまのすべては
未来の希望
必ず 憶えてる
いのちの記憶で



**


この地球という惑星は、たったいま、待ったなしで次元上昇をする時がきてしまったのだろう。それは抗うことのできない大きな大きな流れの中にある。いま自分がここに生きているという事実。それは、全部いのちの記憶が覚えていて、だから、答え合わせのように封印した記憶の欠片がパズルのピースのように、ひとつひとつ浮かび上がってきては、くっつき始めている。特別なことでも、スピリチュアルでもなんでもない。当たり前すぎるくらい、当たり前のこと。レムリアやアトランティスの記憶が甦り出している人が急速に増えているのも(自分の中だけで隠し続けなくてよくなっていることも含めて)多くの人が、目に見えるものが本当に真実なのだろうか?という疑問を持ち、自分がどの情報を信じるかは、自分で決めることができるということに、気づき出している今なのではないだろうか?

夢という安らぎの空間の中に、ほんとうの自分は隠したまま、傷だらけになって何世にも渡る転生の度に、幻想世界を生き抜いてきた日々も、もうすぐ全て自然に終わっていく。

これからは、夢は現実となり、ほんとうの自分がその世界を生き始める。

そんな雪どけ間近の2022年の地球というひとつの惑星に、私もあなたも存在している。







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花はただそこに