シュリ日和

まいにちに生きる

いま感じてること




風が爽やかだ。

今日からまたエネルギーが切り替わったように思う。渦の真ん中、流れに影響を受けない真空のような場所に、ぽつんと取り残されたような感覚。昨日とはまるで違う。

昨日は、上野の不忍池に白龍が封印されてるなんて情報を目にしてしまったがために、自分の目で確認したく、現地へと向かった。上野は父が仕事の拠点にしていたこともあり、子どもの頃から行く機会があり、思い出もある土地だ。昔から感じていた、上野に対する印象は、暗さと重さ。東京のお花見の名所という華やかなイメージとはまるで違う。というより、お花見(桜)が華やかというのも、表向きの片面の持つイメージなだけで、実態は、梶井基次郎桜の樹の下には死体が埋まっている、に象徴される、桜が持ち合わせている裏の顔あってこその美しさなんじゃないだろうか、なんてことを今更思ったりした。人間は、美しいものに惹かれながら、その本質的な理由にはなかなか気づかないものだ。何故、美しいものに惹かれるのか、を。

不忍池に着いたら日曜日ということもあり、人で賑わっていた。夏に満開になる蓮はまだ成長途中で、葉も疎らな状況だった。それでも、水面はほぼ植物に覆われていて、池の中が一体どんな状態なのかは、まったく見通せない。暫くじっと眺めてみた。そして、想像する。''この池の底に大きな大きな白龍が眠らされているのかもしれない、''と。何故か涙が溢れてきた。自由を封印されてきた存在と同調する。私が子どもの頃に感じた、上野の地に対するあの暗く重い印象の理由がここにある気がしてくる。綿あめを買ってもらい、ウルトラマンのお面を被っていた無邪気な子ども時代の自分が、無意識に闇のエネルギーを受け取ってしまっていたのかもしれないと思ったら、子ども時代の自分のことがひどく可哀想になった。そういうエネルギーの中で育ってきたのかと思うと、本当に悲しくなった。それはきっと、私だけの話ではない。きっと同じような体質の人はみんな受け取ってしまっていたのだと思う。目に見えないエネルギーによって、人生左右されてきた人は多いだろう。

なんか暗い話になってしまったが、来月夏至の日に、不忍池の白龍解放ワークとやらを霊能力をつかえる人が企画してるみたいなので、それに期待したい。明るいイメージは持てている。

私なりに、小さな祈りだけ捧げてきた。今までご苦労さまでした、と。これからは共に自由に飛び回ってこの世を遊び尽くしましょう!と。

とにかく、しあわせ慣れしていないのだ。苦しかった輪廻が長すぎるのだ。今感じている変化の前触れとも言える静けさや心の揺らぎは、未知なるしあわせという扉の前に立っている証拠だろう。この心許ない感情から離れることなく、少しずつ、少しずつ、しあわせというものの方に、心と身体を馴染ませていきたい。日々、ほんの僅かずつでも、新しい扉の向こうの景色へと、歩みを進めていきたい。








太陽の方へ