シュリ日和

まいにちに生きる

無知の知

 

 

タイトルの無知の知とは、かの有名なソクラテスが遺した、人類の遺産とも言うべき名言である。私はやっと、この言葉の意味が腹に落とせてきた気がしている。

私は自分が馬鹿だということにようやく気づいた。そしてこれまで、人から馬鹿にされることを恐れていたことにもやっと気づけた。すると、自分のなかでどんな変化が起きたかというと、とても自由になった。嘘みたいにFREEDOM!タロットカードの愚者-THE FOOL-みたいな感じ。番号も0だし、始まり感がある。

愚者も漢字の意味合い的に詠むと、愚か者だし、愚か者って自覚すると自由になるってことかな?なんか気になったから、愚者で検索してみたら、【愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ】という言葉が出てきた。愚者は自分で失敗してはじめて失敗の原因に気づき、その後同じ失敗を繰り返さない。と、ある。

これ、もしかしたらめちゃくちゃ大事なことじゃない?私たちが受けてきた教育って、失敗したらおしまい、というような空気の中にあったじゃないか。だから、みんな失敗を恐れるようになって、勝手に敷かれたレールからはみ出せなくなって、いつの間にか、自分で自分を縛るようになり、自由からどんどん離れていったんじゃないだろうか。愚者や馬鹿と、周りに判断されることを恐れたのは、失敗する経験をしてこなかったからだ。失敗を避けてる以上、エゴを黙らせることができない。失敗慣れしてしまえば、エゴは自分をかばうことなんてする必要がなくなるから、きっと大人しくなるだろう。

千と千尋の神隠しカオナシは、人間のエゴを描いたキャラクターだったんじゃないだろうか。千尋だけが自分の存在を受け入れてくれたことで、欲に憑かれていた時は暴走して人まで食ったのに、存在を認めて受けとめてもらったことで大人しくなったのを見ると、まさに、まんまだ。エゴは自分に気づいてほしくて暴れてしまうのだ。昨日の記事の中で、ディスられた自分をかばった正体はエゴだった。馬鹿にされたくない!という私の心の叫びを聞きつけ、助けにきたのだろう。あなたを助けるのは自分の役目だから、と言わんばかりにいつも飛んできてたのだ。ネタバレ感が半端ない。

私は馬鹿で愚かな愚者であると知ってしまった。そうなるともう、エゴの出番はないのである。つまり、急に大人しくなって借りてきた猫のように千尋の隣にそっと寄り添うようになったカオナシの如く、私のエゴは私に淘汰された。これでお互いにもう安心だ。エゴはインナーチャイルドとも言い換えられる。淘汰は癒しとも言えるだろう。

さて、話を戻そう。

私は馬鹿だから、馬鹿なことをやっちゃうのは当然のことで、人に馬鹿にされることも当然なのである。そんな境地になると、やりたいことはやらなきゃ損だな、って気持ちになってくる。失敗して学ぶ自由を得たのだ。..と言いながらも、正直言うと、まだまだ自分が投稿した動画(YouTubeの話)が見られているか否かに、怯えている自分もいる。失敗が怖いのだ。理由は、失敗に慣れていないから。馬鹿にされることに慣れていないから。だから、馬鹿にされることに慣れ親しむまでやるしかない

山本太郎を見てみろよ(自分に言ってます)天皇に直接手紙渡してみたり、すごいことやってきてるじゃないか。あの人の経験値ってどんだけのもんだろう。失敗して、学んで、強くなったからこそ、人を頼ることもできるようになったんじゃないだろうか。自分なんてあまちゃんもいいとこ。早く経験値積んどけよ。人に頼り頼られ、協力し合って輪を広げていく未来の自分が待ってるんだからさ。

(..って、すみません。完全にひとりごとタイム入ってました〜)

 

動くと気づきの波が打ち寄せる。

来る7月に向けて動きを止めずに行きたい。

 

 

 

 

百合の花畑に誘われて