シュリ日和

まいにちに生きる

奇跡きた!

 

 

 

さっき、急に気分が爆上がりした時に、思わずノートに、奇跡きた!ありがとう!と、どピンクのマジックペンで力強く書いたら、そのあとに、ほんとに奇跡がきて、嬉しくなって歌い出した。ちょうどごはんを食べようとしてた時で『なんかスカッとするような動画ないかなぁ〜』なんて思ったら、きてた。笑

引き寄せのコツを得た私はたった今メンタルが最強に戻った。勇気をもらったからだ。

3日前に投稿したYouTubeの動画が、どうしても何回見られているかが気になって、管理画面を確認することができないでいた。ほんとに不思議だけど、何となく見られていない予感があったからだ。(こういうのも一応透視能力らしい)どうしても、数が気になる。見られているか、見られていないか、いいね、はもらえてるか、いないか、そればかりが気になる。それは恐らく、見られている人(社会の成功者)だけに価値があるんだぞ、という長年の洗脳によるものが大きいと思う。自分には価値がある。すべての人に平等に価値がある。そう思えるようになった(思い出した)はずなのに、数という呪縛からまだ脱することができていなかった。それもしょうがないと受け入れてはいたが、それでもやっぱり恐れは消えない。無理して凹むくらいなら、見ても大丈夫って思えるまで放置しようと思っていたのだが、なかなか大丈夫と思えないでいた。

そうしたら、さっきの奇跡のおかげで、『つまんねーこと気にしてるうちに、死んじまうぞ!』という勇気が内側からむくむくと湧き上がってきたことで、えいやっと、確認することができた。結果は惨敗。哀しいかな、透視能力だけはしっかりと証明された。

実は、その動画は自分的にものすごくいいんじゃない?!と自画自賛していたものだった。自信があったからこそ、評価を気にした。これは人のためになるだろう、という、勝手な期待があった。だけど、蓋をあけてみたら真逆の結果に終わった。中学生の頃に夏休みの読書感想文で、すごい自信があったものを国語の先生に全く評価されなかった時の記憶が蘇る。もしかしたら、その頃から潜在意識に自信があるものはダメ、と刻み込まれてきているのかも。

だけど今日、その頃から引きずってきた傷を超えた気がする。勇気をもらわなかったらきっとまたエゴが暴れだして、『こんなことやめなよ!また傷つくだけだよ!』なんてずっと囁かれては、信念をもって始めた挑戦から早々に逃げ出していたかもしれない。危ないところだった。ネガティブな思いに囚われないためには、どんどん、はい次!はい次!って流していくしかない。ということで、懲りずに新しい動画をアップした。次はもう、これほどまでに数を気にすることはないだろう。やりたくてやっているのだ。誰かに認めてもらわないと意味がないわけではないのだ。更には、私が人に喜ばれる在り方をまだ私が知らないだけなのかもしれないのだから。

 

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私は子どもの頃から、助けが欲しい時に、助けて、と言うことができなかった。誰かを頼ることが極端にできない子どもだった。父と母は、ごく普通の人だと思っているけど、私が親に何かを相談することは一度もなかった。もっとも、自分が何に困っていて、何に傷ついて、どうして欲しいかがわからなかったことが、一番の問題だったのかもしれないけれど。

大人になって、同じ傷をもってる人と出会った。私たちは、子どもの頃と同じように、何も本音を伝え合えなかった。だけど、相手が自分と同じ傷を抱えてきたことがわかったから、何も言わなくてもわかり合えているような気もした。そのことが、心を救ったのだろう。それから、誰かと話していて、ほんとうに言いたいことが言えなくて、どうしようもない気持ちになる度に、その人が心の傍にいることを感じた。きっとその人だったら、今の私の気持ちを言葉にしなくてもわかってくれるような気がしたのだ。だから、その人が同じような場面で、私のことをそっと思い出してくれたらいいな、そんな風にいつも祈っていた。

愛ってなんだろう。人を愛することは深遠で、まだまだわからないことばかり。だけど、ほんとうの心は、ほんとうの心へと届く。(オザケンアルペジオの歌詞を引用)それは、ほんとうだと思う。

 

連日と比べてすこしだけ涼しい夏の夕方の風が吹いている。私は今とてもしあわせだ。だから、もっとしあわせになってもいいと思っている。

 

Happy my life

Enjoy my life

Journey  of our life

 

 

 

 

 

自然という地球の芸術作品