シュリ日和

まいにちに生きる

人生はプラクティス




ラクティスって言葉の響きが軽いところが好きでよく使う。直訳すると、練習。コトバンクによると、練習とは、行動を繰り返しリハーサルして、スキルを学び、最終的に習得するのに役立つ行為です。とある。

軽いってふわふわしてて、やわらかそうで、なんとなくいい感じ。これからの人生はプラクティスで行きたい。

ただ単純にやってみたいことをやってみると、わかることがある。ちょっとやって満足することや、途中間があいたとしても、またやりたいと思い、何度もカタチを変えて続けていくものもある。

行動することを躊躇っていると、頭の中だけでやってみたいことをやっている、実体のない自分がどんどん巨大になり、頭の中では、なりたい自分像が勝手に完成していたりする。頭の中で完成したものを、現実に登場させるためには行動が要る。行動がいちばん怖いことって思わされる世の中だから、安全が保証されている頭の中だけで叶ってるなりたい自分像に浸っている方が、守られている安心感があるし、そこから飛び出すには、勇気も必要で、現実世界で一歩を踏み出すためのハードルはどんどん上がっていく。

私はインターネットが使いこなせないタイプの旧型の人間なため、各種SNSで適当なアイコンで、適当なアカウント名を用い、アバターを使いこなして自分の発信ができる人を『すごいなぁ〜』と横目で見ながら、そのやり方が自分に向いてないのもわかるし、正直、自分の顔と名前で発信してる人がカッコいいな!と憧れているため、未だにTwitterは閲覧用アカウントで情報を得るためにしか使っていない。

そのくせ、YouTubeでは思いっきり顔を出してなんの説明もせずに行き当たりばったりでやってしまうあたり、ほんと私って突拍子もないタイプだよなぁ〜と、自分で自分を持て余してたりもする。

ただ、自分がやりたくてやったことを受け入れてもらえたり、褒めてもらえたりすると、やっぱり素直にものすごく嬉しくて、昨日もチャンネル登録者が一人増えたことに、『やったー』って思った。やってることに意図はあるけど、それを横においても、褒められるって嬉しい。願わくば、もっと子ども時代に褒められたかったけど、それが叶わなかった分、自分が出会った人にはその人のいいところを見つけて褒めてきたし、これからもそうしていきたいと考えている。

参議院議員選挙が間近となり、SNSでもその話題で盛り上がっている。私自身も推しのことを記事に取り上げたりしたが、ある政党についてやり合ってるツイートを見て、ある感想をもった。その政党のことはよく知らないので言及できないのだが、その政党推しの一部の人たちのコメントには共通点がある気がして(完全に主観です)それは、自分の考えを代弁して行動してくれている人たちを支持することで、あたかも自分が大きなことに参加しているかのような行動の疑似体験による信者的な雰囲気が漂っているというところ。政治に参加してます!あなたもですか?私もです!この党の考え方共感できますよね!私たち仲間ですね!的な。。

人との繋がりがどんどん奪われている空虚な社会のなかで、以前よりももっと深く孤独感を募らせている人が今、少なくないと思う。だから、人と繋がりたくて、仲間感を味わいたくて、目の前にきた、体のいいものに飛びついてる感が漂っているように感じられた。自分が行動を起こせない分、代わりに先頭に立って自分の思いを代弁してくれる人に委ねながら、自分がそこに参加しているという高揚感を味わって一時の喜びに浸っているようにも見える。そういう現象が起きるのも頷けるけど、影響力は小さくても、あなたにはあなたにしかできないことがあるはずですよ!と、言いたくなった。あなたは気づいていないだけで、すでにそれをやっているかもしれないし、この腐りきった社会のなかで孤独感を強く感じるように仕向けられてるだけで、もともと人は孤独だし、孤独は怖いことではないし、一人でも凛として生きている人だっているんだよ。自分のなかには輝く原石がまだ眠っているのだから、それを磨くことに力を注いだ方が、自分も本当の意味で満たされるし、社会貢献になるんじゃないでしょうか?

なんかそんなことを思ったりした。

言いたかったことは、話に出した政党がどうとかそういったことではなく、政治に参加して盛り上がる以前に、もっと自分の価値に気づくことの方が、重要度が高いんじゃないかってこと。

日本人てお人好しな人が多いんだと思う。長所は裏を返せば短所にもなり得るのだ。教育過程において、自己主張というものを教えてもらえなかった(プラクティスしてこなかった)弊害が、こういうところに出ている気がする。自己主張できる人にくっついていこうとしちゃうのは、自分が自己主張できないからなんじゃないだろうか。自分軸がある人は、冷静に物事を見極め、俯瞰的視点を持ち、世の中を見ていると思う。そういう孤高の存在感を示している人も自己主張していると言えるだろうし、声をあげることだけが主張ではないと思う。世の中に対して自己主張するやり方には色々な方法があって、例えば、心許せる友人たちとおふざけしてる動画を投稿してる人がいたとして、そういうのをたまに見かけると、大笑いしちゃうことなんかがある。これは、見てるこっちも楽しいけど、やってる本人が一番楽しいんだろうなぁ〜、っていうようなやつ。自分が楽しんでる姿をシェアしてくれるって、凄い社会貢献になってると思う。やってる側は自己主張なんて思ってないだろうけど、自己表現は立派な自己主張だ

もっとラフに、どんな事でもいいから、自分という個性の片鱗を表したプラクティスを一人一人がやりはじめたら、世界はもっと面白くなるはず。私はそういう世界が実現する日を夢見ているから、自分も何かしら生命活動、生命表現をしていきたいと思っている。







時代の夜明け