シュリ日和

まいにちに生きる

パラレルワールド

 

 

教会に行った。

日曜日の静かな夕方。

誰もいない。まるで、私のためだけに開かれているかのような教会へと足を踏み入れる。

穏やかな祈りの時間。

エス様もマリア様も、いつもここにいる。

私が何をしていようが、いまいが、変わらぬ愛を与えてくれている。その愛に気づけているかどうか。気づけている時は、感謝に包まれる。生かされて生きている喜びに包まれる。その時私は愛そのものとして存在している。

 

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最近、よく子どもの頃のことを思い出す。私は3~4歳の頃からの記憶が未だにあるのだが、いつだったか、小学校時代からの友達と大人になってから記憶についての話をしていたら『あたし、中学の記憶も曖昧だわ。』と言っていて驚いたことがある。私と彼女の違いはどこにあるのだろう?別に記憶が多く残ってること自体にいいも悪いもないのだが(どっちかと言うと損してる気はするが、、)色んなことを忘れていけることは、才能のひとつなんじゃないかと思う。生まれ持った性質の違いや、育った家庭環境や、そういったバックグラウンドが影響しているのだろうか?

子どもの頃の私は、家では自分のポジションを全うするために大人しくしていて、学校では暴れるタイプだった。ほんと、学校では男の子みたいに全力で遊んでたし、頭なんて使わずに、本能のままに振舞った。自己中だったから、周りのことが見えずに、やりたいことを好き勝手にやって、毎日が楽しかった。多分、そんな私のことを気に入らない子もいただろうに、そっちを気にすることは皆無だった。嫌われることを恐れてなんていなかった。自分と、そんな自分を好んでくれる子にしか意識は向かなかった。だから、どんなに自己中で思いやりのない自分のことでも大好きだった。毎日を楽しんでいたからだと思う。

あれやろうぜ!これやろうぜ!と、仕切るタイプだったため、元々受け身のタイプとは気が合っていたのだろう。ぐいぐい引っ張るタイプと、引っ張ってもらうタイプで、バランスがとれていたのだ。そのままだからそのままうまくパズルのピースはハマっていた。

大人になる過程で、色んな技を無理矢理教え込まれてきたことで、どんどん自分がわからなくなった。怖いから心を閉ざした。子ども時代の好き勝手やってた自分は、一体どこへ行ってしまったんだろう。物心ついた頃には、本来の仕切りや気質とは真逆の受け身タイプに一変していた。

自分の目の前の人の気持ちを察することは苦手だったくせに、絵本の登場人物(や登場動物など)には、いつもやたら感情移入した。学校の図書室で、お気に入りの本を読むことに没頭してる自分をはっきりと覚えている。没頭してた時の状態を覚えているってことは、没頭してなかったんじゃないか?って気もするけど、不思議とそこは矛盾しない。多分、違うパラレルにいる自分が、その子を見てるって感覚に近いのかな、と思う。自分は無限にいる。全ての今に、無限にだ。

パラレルワールドの話を、自分なりにようやくわかりやすく説明できるようになってきたので、してみよう!

たとえば、今この瞬間、どこかへ行きたいと思うとする。そして、実際にどこかへ行くという選択をし、行動するというAの選択肢が生まれる。さらに、行きたいと思うが、様々な人間界の事情から、行かないという選択をするBの選択肢があるとする。この二つの選択から、それぞれの未来が変わってくる可能性がある。何故なら、Aの選択肢の方で、行きたい場所へと行った先に、思いもよらないアトラクションが起きる可能性が生まれるから。そのアトラクションにより、これまでの考え方がガラッと変わってしまい、人生観諸共、180度変わってしまうなんてことも起こりうるかもしれないからだ。

こんな感じで、自分の選択と行動により、無限にあるパラレルワールドを日々私たちは創り出してると言える。創り出してると同時に既にあるパラレルワールドを選んでいるとも言える。全てのパラレルワールドは全ての次元において現在進行形で存在している。

現在、3次元や3.5次元と言われている地球という惑星で、肉体をもつ、このブログを書いている私のほかに、4次元の私、5次元の私、という風に、次元ごと、更には、その次元の私の選択次第で、無限に未来は創り出せる。

昨日と今日が変わらないように感じるのは、昨日と今日の選択と行動が同じだからで、人生が退屈なのは、新しい選択と行動を取り込むことを選んでいないからかもしれない。

新しい選択と行動をしない人が多いのは、想像できないことに対する恐れを抱くように洗脳されてきたことが影響していると思う。コンフォートゾーン(安全地帯)に留まり続けることを選んでしまうのは、人間の特性にあるというから、それをわかった上で、そんな人間をコントロールしようと画策した存在がいると考えられる。最近では、脳にネガティブ意識をインプラントされて生まれてきているなんてことも騒がれだしてるから、相当深い闇がありそうだ。

ただ、自由がないと思ってきた(いる)のも幻想でしかなく、今この瞬間、自分がいつもと違う選択をして行動を起こすことで、自由は常に自分の手のなかにあることを知る。全ては今ここにある説が真理だと思う。(バシャールっぽくなってきた笑)

この3次元という物質世界では、様々な縛りがある。(肉体も物質、エネルギーが重い)たとえば、長距離移動するには乗り物が必要だし、大体何をするにもお金が必要になるし、家がないと不便だし、ずっとひとりでいて、何らかのエネルギー交流(良いエネルギー=氣を補給)をしないでいると、氣力が落ち、不安に苛まれるようになったりする。

もしも、肉体も物質もなかったら、意識は一瞬で好きなところへ飛んでいける。一瞬だ。けれど、物質世界である地球という惑星を楽しむためには、この不自由さを逆手にとって、変えられないことが多い中でも、考え方をいかに柔軟にして楽しむか、そこに的を絞ることが大事なんだと、思い至った。

こういう考え方とは、自分が興味をもって調べたり、人との関わりを通して自ら考えつづけなければ、決して出会えなかったと思う。物事に対する認識が広がることで、自分という自我からも解放されてくる。自我から解放されると、魂という意識体優位で生きられるようになる。真我との出会い。それが、感謝の真髄。

 

あれ?

書き出しの、教会の話に帰ってきてる。

神さまの存在を意識して生きることは、それだけで奇跡のようではないか。

子ども時代に、私は誰のためでもなく自分が楽しんで生きることで、周りとの調和がとれ、世界が上手く回るという経験を既にしている。努力や気遣いなど必要ない世界。思いっきり楽しめれば、成功。誰かやなにかに寄せたら死亡w

明るい気持ちになった今この瞬間、曇っていたはずの空に日が差した。祝福の光ということにしてしまおう。

 

今がいちばん人生で自己主張している時期だ。何もしなくても、誰のなんの役にも立たずとも、自分には生きることが許されている。正にラッキーとしか言いようがない。このお気楽お天気脳が本来の私っぽいじゃないか。


大丈夫。

この私のまま、かならず動き出す日がくる。

 

 

 

 

今ここから始まる明るい未来へ💫