ラジオアプリで配信を続けている。今日で25日目。思いついたことを話す。ひとり言なんだけど、『もしかしたら、これを聞いてくれる人がいるかもしれない。』と思いながら話すことは、ただのひとり言とは違う。
テーマが日によってまったく違うから、聞いてくれる人も毎回違うようで、面白いのが、最近は毎日違う人が''いいね''をしてくれている。それも毎日ひとりだけ。毎日違うひとりの''いいね''があることで、続ける張合いがある。今日は、昨日のブログ記事を音読してみようかな?なんとなく、そう思ったから。
しかし、私は本当に生きることが不器用になってしまって、どうしたものかと毎日考えないようにしながらも、見て見ぬふりしながらも、ずっと考えてる気がする。悲壮感は無い。ただそれを選んでいるのは自分だから。今すぐ小さく狭い部屋を飛び出して空を飛べばいいものの、そうしていないのは、そうしないことを選んでいるからだ。
ほんとうは、19歳の時、ワーキングホリデーでオーストラリアに行こうと考えていた。オーストラリアで仕事しながら話す英語を覚えて、気ままにインドやアジアやヨーロッパなんかを旅するバックパッカーにでもなりたかった。外国は自分を自由にしてくれる場所だと思ってたから。もし本当にそうしていたとしても、親は何も言わなかったろう。彼らは、私に興味がなかったのだ。関心もなかった。だからある意味、日本にいたって自由ではあったけど、私はこのままだと何も話せなくなる危機感を察知してか、ここから飛び出さないと、早くここから。ただただ、そんな焦燥感に駆られていた。
フジファブリックの茜色の夕日という曲のなかに、『~本音を言うこともできないな できないな 無責任でいいな ラララ そんなことを思ってしまった しまった しまった』という歌詞がある。この、''そんなことを思ってしまった しまった しまった'' という言葉のニュアンスから、志村正彦が表現したかった気持ちが、私にはなんとなくわかる気がする。無責任であることよりも、無責任でいいな、と思ってしまった自分。そんなことを思ってしまった自分、そんな自分を、私はもう長いこと持て余して生きているような錯覚に陥る。
そう、この想いは錯覚なのだ。
パラレルの中の自分の想いにまで、何故私は責任を持とうとしてしまうのだろう。本当に責任があるとしたら、今ここに生きる私に対してのはずなのに。
タロットカードはDeath続き。潔く死にたい。もうこれ以上、死にきれないものを抱えて行きたくない。そんなの私が可哀想だ。
おととい、好きな歌を唄った。空腹だったからか、腹から声が出た。一曲にこんなにエネルギーを使うのは初めての体験で、熱を込めるってこういうことなんだって、なんかわかった気がした。その日、その歌を唄えたことで、私は「今日は全力で生きたな。」そんな手応えを感じた。好きな歌を全力で唄えたってことは、生きたのだ。命が発動していたのだ。そんな風に思えたのは、ここまで振り切ったからこそなんだろう。
もうそろそろ、自分を自由にしてあげたい。
愛すべき自分を。
溶け合う