シュリ日和

まいにちに生きる

奇跡きた!




さっき、急に気分が爆上がりした時に、思わずノートに、奇跡きた!ありがとう!と、どピンクのマジックペンで力強く書いたら、そのあとに、ほんとに奇跡がきて、嬉しくなって歌い出した。ちょうどごはんを食べようとしてた時で『なんかスカッとするような動画ないかなぁ〜』なんて思ったら、きてた。笑

引き寄せのコツを得た私はたった今メンタルが最強に戻った。勇気をもらったからだ。

3日前に投稿したYouTubeの動画が、どうしても何回見られているかが気になって、管理画面を確認することができないでいた。ほんとに不思議だけど、何となく見られていない予感があったからだ。(こういうのも一応透視能力らしい)どうしても、数が気になる。見られているか、見られていないか、いいね、はもらえてるか、いないか、そればかりが気になる。それは恐らく、見られている人(社会の成功者)だけに価値があるんだぞ、という長年の洗脳によるものが大きいと思う。自分には価値がある。すべての人に平等に価値がある。そう思えるようになった(思い出した)はずなのに、数という呪縛からまだ脱することができていなかった。それもしょうがないと受け入れてはいたが、それでもやっぱり恐れは消えない。無理して凹むくらいなら、見ても大丈夫って思えるまで放置しようと思っていたのだが、なかなか大丈夫と思えないでいた。

そうしたら、さっきの奇跡のおかげで、『つまんねーこと気にしてるうちに、死んじまうぞ!』という勇気が内側からむくむくと湧き上がってきたことで、えいやっと、確認することができた。結果は惨敗。哀しいかな、透視能力だけはしっかりと証明された。

実は、その動画は自分的にものすごくいいんじゃない?!と自画自賛していたものだった。自信があったからこそ、評価を気にした。これは人のためになるだろう、という、勝手な期待があった。だけど、蓋をあけてみたら真逆の結果に終わった。中学生の頃に夏休みの読書感想文で、すごい自信があったものを国語の先生に全く評価されなかった時の記憶が蘇る。もしかしたら、その頃から潜在意識に自信があるものはダメ、と刻み込まれてきているのかも。

だけど今日、その頃から引きずってきた傷を超えた気がする。勇気をもらわなかったらきっとまたエゴが暴れだして、『こんなことやめなよ!また傷つくだけだよ!』なんてずっと囁かれては、信念をもって始めた挑戦から早々に逃げ出していたかもしれない。危ないところだった。ネガティブな思いに囚われないためには、どんどん、はい次!はい次!って流していくしかない。ということで、懲りずに新しい動画をアップした。次はもう、これほどまでに数を気にすることはないだろう。やりたくてやっているのだ。誰かに認めてもらわないと意味がないわけではないのだ。更には、私が人に喜ばれる在り方をまだ私が知らないだけなのかもしれないのだから。


**


私は子どもの頃から、助けが欲しい時に、助けて、と言うことができなかった。誰かを頼ることが極端にできない子どもだった。父と母は、ごく普通の人だと思っているけど、私が親に何かを相談することは一度もなかった。もっとも、自分が何に困っていて、何に傷ついて、どうして欲しいかがわからなかったことが、一番の問題だったのかもしれないけれど。大人になって、同じ傷をもってる人と出会った。私たちは、子どもの頃と同じように、何も本音を伝え合えなかった。だけど、相手が自分と同じ傷を抱えてきたことがわかったから、何も言わなくてもわかり合えているような気もした。そのことが、心を救ったのだろう。それから、誰かと話していて、ほんとうに言いたいことが言えなくて、どうしようもない気持ちになる度に、その人が心の傍にいることを感じた。きっとその人だったら、今の私の気持ちを言葉にしなくてもわかってくれるような気がしたのだ。だから、その人が同じような場面で、私のことをそっと思い出してくれたらいいな、そんな風に祈っていた。

愛ってなんだろう。人を愛することは深遠で、まだまだわからないことばかり。だけど、ほんとうの心は、ほんとうの心へと届く。(オザケンアルペジオの歌詞を引用)それは、ほんとうだと思う。


連日と比べてすこしだけ涼しい夏の夕方の風が吹いている。私は今とてもしあわせだ。だから、もっとしあわせになりたいと思っている。


Happy my life

Enjoy my life

Journey  of my life






自然という地球の芸術作品

花を咲かそうよ




7月だ。

6月最終週はちょっと元気すぎた。天から力を与えてもらっていたんだろう。ちゃんと反動がきて、昨日は恐れが湧いてきた。縋るようにバシャールの動画を観たり、大祓祝詞を聴いたり色々したけど、変わらず。なんとかやり過ごすことで精一杯だった。どんなに宇宙理論に基づくこの世の仕組みが頭で理解できても、人間としての経験は一朝一夕に身につくものじゃない。行動することの怖さも、数を重ねれば消えるってことでもないのかもしれない。私にはそれを先にお手本としてやってみせてきてくれた大切な人がいるから、自分が行動してはじめて、その人のやってきたことがどんなに大変なことだったかが、身に染みてよくわかった。『こういうことだったのか』と。

もちろん、その人と私は別の人間なんだから、同じことを感じていたかどうかは、その人に聞いてみなきゃわからないことだけど、ずっと見てきたから、感じるものがある。自信が漲る時もあれば、自信なんて皆無状態になってしまうこともあっただろう。それでも、挑戦する姿勢を見せ続けてくれたことは、ちゃんと私に(みんなに)力を分けてくれていた。


苦しかったよね。

しんどかったよね。

心細かったよね。

逃げ出したかったよね。


ちゃんと、わかってたよ。


男ってほんとに大変だ。女よりずっと繊細で優しい生き物なのに、たったひとりで戦に出るよう育てられてきてしまったのだから。だから、女の私は、疲れた羽を休ませてあげる温かい帰る場所でありたいと思った。‥そう思ったくせに、私の魂はその本質が戦い気質なため、黙って穏やかに見守ってばかりもいられない。自分の心に響く誰かの頑張る姿を見ると、つい自分もなんかやりたくなってしまう。やりたくてやってるんだから、それはそれで意味が無いわけではないんだろうけど、男が帰る場所としての自分になるには、まだ未熟なのかも。横に並んで共に戦うことが先。そんな気もしている。


ほんとについさっきまで、自分には何もできない。みんな頑張って働いてるのに、自分は一体何をやっているんだろう。このままでいいわけない。そんなネガティブな思いに囚われていた。そんな時に、YouTubeの自動で壱岐島龍神がいる神社の動画が流れてきたのでなんとなく観てみたら、狛犬の代わりに配置された龍神の石像をアップ主がアップ(ややこしい)で写していたので、龍神様からメッセージを受け取ろうと、心のなかで話しかけてみたところ、返事が返ってきた。


🐉『お前はよくやってる。お前はよくやってるから、泣け。笑え。楽しめ。』と。


すると、私の頭にひとつの曲が浮かんだ。沖縄出身の喜納昌吉という音楽家の''花''という曲。『泣きな〜さ〜い〜、笑〜い〜なさ〜い』というフレーズに聞き覚えはないだろうか。あの歌が突然頭の中で流れ出したので、さっそく喜納さんの''花''を聴く。生きることの喜びと悲しみが同時に込み上げてきて、思いっきり泣いた。思いっきり泣いたら、そのあとで、思いっきり笑うことができた。自分のなかに湧き上がってきていたネガティブは一掃され、スッキリと晴れやかな気持ちになる。きっと、浄化を必要としていたのだろう。やっぱり、龍神様って凄いのかもしれない。受け取る能力も、毎日コツコツ意識を向けてこそ上がるものだと思う。

ある透視能力がある方が言っていたのが、私たちが自分だと思っているものの90%くらいが実は自分じゃない(他のエネルギー)と。私もそれには薄々感づいてはいたのだが、90%ともなると、毎日浄化してなきゃ本当の自分なんて、わからなくなって当然だ。浄化も色んな方法があるし、その時々の自分に合うやり方が移り変わるので、いつも自分をちゃんと見てあげていないと、今日の前半の私のように、自分じゃないものに囚われの身となってしまうだろう。ネガティブは幻。なぜなら、私たちの魂のルーツは宇宙の源、ソースや愛や光と呼ばれる高次元にあるからだ。ネガティブは、この地球に蔓延る低次元意識の集合エネルギー。負のエネルギーが蔓延しているなかを、私たちは日々、人間活動しなくてはならないのだ。しんどくて当然。だけど、そんなここ(地球)にしかないものもある。それが、喜納さんの''花''を聴くことでわかる。ここでは、喜びと悲しみの両面を体験できるということだ。どっちもあるから感動がある。二元性の世界。陰と陽の世界。それは、愛と喜びしかないエネルギー交流により成り立つ高次元では体験できない貴重な場所。じゃあ、悲しい経験は貴重だから、人生で悲しい経験をいっぱいした方がいいかって、そんなことは全然思わない。基本が辛く苦しいがベースな場所で、常にネガティブエネルギーに支配されがちな精神と肉体をもちながら、いかに、高次元のような世界観で生きられるか、そこに私は挑戦しているんだと思う。したいんだと思う。

ずっと本気であそぶことについて考えてきた。自分が高波動な状態の時に、本気であそびたい!と思っても、辺りを見渡した時に、一緒にあそべる仲間はいなかった。でも、それもそのはず。私は半ば変態的に、スピリチュアルと呼ばれるものを独自に探求してきたから今こんなこと言ってるけど、自分が知りたいと思って調べない限り、これらのことを教えてくれる教育機関は無いし、つまり、共にあそべる人がいたとして、その人が私と同じようにこういった地球や魂や人間の仕組みを理解していない場合、本気であそぶは成り立たないと思ってきた。

けれど今は考えが変わった。いちばんいいのは、そんなこと関係なしに、老若男女、とにかくみんなが馬鹿になってあそべたら最高だ。それには、自分が今言ってきたこと全部とっぱらって、楽しさを伝染していくことなんだよなぁ〜。楽しそうに生きてる姿を自分が見せることができたら、楽しそうな気配につられて、寄ってくる人たちがいるんじゃないかな。自分が自分を楽しめたら勝ち!数年前から座右の銘としているが、なかなかその状態を保ちつづけることは、成し難い。


お前はよくやっている!

龍神様の声を今日は素直に受け入れて、自分に優しくしたいと思う。






ネーミングセンスあり🍌

無知の知




タイトルの無知の知とは、かの有名なソクラテスが遺した、人類の遺産とも言うべき名言である。私はやっと、この言葉の意味が腹に落とせてきた気がしている。

私は自分が馬鹿だということにようやく気づいた。そしてこれまで、人から馬鹿にされることを恐れていたことにもやっと気づけた。すると、自分のなかでどんな変化が起きたかというと、とても自由になった。嘘みたいにFREEDOM!タロットカードの愚者-THE FOOL-みたいな感じ。番号も0だし、始まり感がある。

愚者も漢字の意味合い的に詠むと、愚か者だし、愚か者って自覚すると自由になるってことかな?なんか気になったから、愚者で検索してみたら、【愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ】という言葉が出てきた。愚者は自分で失敗してはじめて失敗の原因に気づき、その後同じ失敗を繰り返さない。と、ある。

これ、もしかしたらめちゃくちゃ大事なことじゃない?私たちが受けてきた教育って、失敗したらおしまい、というような空気の中にあったじゃないか。だから、みんな失敗を恐れるようになって、勝手に敷かれたレールからはみ出せなくなって、いつの間にか、自分で自分を縛るようになり、自由からどんどん離れていったんじゃないだろうか。愚者や馬鹿と、周りに判断されることを恐れたのは、失敗する経験をしてこなかったからだ。失敗を避けてる以上、エゴを黙らせることができない。失敗慣れしてしまえば、エゴは自分をかばうことなんてする必要がなくなるから、きっと大人しくなるだろう。

千と千尋の神隠しカオナシは、人間のエゴを描いたキャラクターだったんじゃないだろうか。千尋だけが自分の存在を受け入れてくれたことで、欲に憑かれていた時は暴走して人まで食ったのに、存在を認めて受けとめてもらったことで大人しくなったのを見ると、まさに、まんまだ。エゴは自分に気づいてほしくて暴れてしまうのだ。昨日の記事の中で、ディスられた自分をかばった正体はエゴだった。馬鹿にされたくない!という私の心の叫びを聞きつけ、助けにきたのだろう。あなたを助けるのは自分の役目だから、と言わんばかりにいつも飛んできてたのだ。ネタバレ感が半端ない。

私は馬鹿で愚かな愚者であると知ってしまった。そうなるともう、エゴの出番はないのである。つまり、急に大人しくなって借りてきた猫のように千尋の隣にそっと寄り添うようになったカオナシの如く、私のエゴは私に淘汰された。これでお互いにもう安心だ。エゴはインナーチャイルドとも言い換えられる。淘汰は癒しとも言えるだろう。

さて、話を戻そう。

私は馬鹿だから、馬鹿なことをやっちゃうのは当然のことで、人に馬鹿にされることも当然なのである。そんな境地になると、やりたいことはやらなきゃ損だな、って気持ちになってくる。失敗して学ぶ自由を得たのだ。..と言いながらも、正直言うと、まだまだ自分が投稿した動画(YouTubeの話)が見られているか否かに、怯えている自分もいる。失敗が怖いのだ。理由は、失敗に慣れていないから。馬鹿にされることに慣れていないから。だから、馬鹿に慣れ親しむまでやるしかない

山本太郎を見てみろよ(自分に言ってます)天皇に直接手紙渡してみたり、すごいことやってきてるじゃないか。あの人の経験値ってどんだけのもんだろう。失敗して、学んで、強くなったからこそ、人を頼ることもできるようになったんじゃないだろうか。自分なんてあまちゃんもいいとこ。早く経験値積んどけよ。人に頼り頼られ、協力し合って輪を広げていく未来の自分が待ってるんだからさ。

(..って、すみません。完全にひとりごとタイム入ってました〜)


動くと気づきの波が打ち寄せる。

来る7月に向けて動きを止めずに行きたい。







百合の花畑に誘われて

十把一絡げ




おととい、日本橋界隈をぶらぶらしていたら、小さな神社にシュピリチュアルセンサーが反応した。『ここには伝説の姫様が祀られている!』そんな記述はなかったけど、勝手にそう感じた私は、神社で神様に話しかけると喜ぶよ!情報を思い出し、慣れないながらに心のなかで、神様へと話しかけてみた。

すると、天女のような美しい(綺麗よりも可愛らしい)女神様が、楽しそうな微笑みを浮かべて空を渡りながら、金の粉を地上に振りまいてくれるイメージが頭に浮かんだ。

私は嬉しくなって、『ありがとうございます♡(お金ください)ありがとうございます♡(お金ください)』と、声に出して感謝を伝えた。

毎月、東京都神社庁が発行している生命の言葉なる、神様の言葉的なものが記された紙が神社の店頭(とは言わないか、笑)に置いてあるのだが、6月は倭姫命世紀より、【神は垂るるに祈祷を以て先と為し、冥は加ふるに正直を以て本と為す】という言葉だった。生命の言葉の裏面には、神道知識への誘ひというメッセージも書かれており、今月は【浄明正直】というものだった。要約すると、神より御恵みを授かるには祈りと正直が第一であるという意味である。

なるほど。祈りと正直か・・。なかなかセットにできてないな。ということで、今回は女神様もごきげんの様子だったため、正直に『お金ください』を付け加えてご挨拶をさせていただいた。正直ってそういうのもありってことだよね?わからないけど、女神様はきっと懐が深いから大丈夫だろう。ってめっちゃ自分に都合いい解釈をした。まあ、私はまだまだ未熟者でお馬鹿なことも天からは全てお見通しだろうから、大いなる存在を前に、自分を取り繕う必要なんてない。ぜーんぶ見られているんだから。今の自分で、笑って正直に、ありがとうございます(お金ください)と、お伝えするしかない。

そんなことがあり、水天宮へと向かう中、突如頭に【十把一絡げ】という、滅多に見聞きしすることなどない、言葉が浮かんだ。『‥ん?十把一絡げ?十把一絡げって何?』一応私はこの言葉を知っていたため、早速ググることに。

【十把一絡げとは、さまざまな種類のものを区別することなく、ひとまとめにすることです。十把とは、束が十あるという意味でそれをひとつにまとめることを意味しています。】使い方としては、それぞれに意味があり、個別に扱うべきであるにも関わらず、すべて同じように扱うというネガティブな意味合いがある言葉です。とある。

私はこの言葉は、間違いなく女神様からのメッセージだと受け取った。十把一絡げは、束の話だが、これを人に喩えるなら、ひとりひとり個別に扱うべき大切な存在を、すべて同じように扱ってはならない。ひとりひとりを大切にしなさいよ。という、私が兼ねてから大切にしている、''人間一人は世の宝''と、ほぼ同じ意味を表しているように思えた。

ビビる。信念が強固なものになっちまうじゃないか。デカいことに挑もうとしている想いが伝わってる。やっぱり天は全部お見通しだ。


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過去世リーディングの機会に恵まれた時に、レムリアを感じるワークというものに参加した。その時、私は私の黄色い薔薇からメッセージを受け取った。

それは、''奏''という一文字に込められていた。


無の中にすべてがあります

奏でなさい

あなたのメロディーで

ひとりひとりの音を聴きなさい

オーケストラをつくるのです


・・実は、2020年に私の夢が動き出しそうなタイミングがあった時がある。その時、ある日見た夢のなかで、私は立派な劇場でオーケストラの指揮を振っていた。指揮を振っていたことに加えて、世界の小澤(オザケンの叔父さん)のような世界で活躍する指揮者のエネルギーが自分へとグワーッと、流れ込んでくるという経験をした。そのことと、レムリアからのメッセージと、十把一絡げは、すべてが繋がっている。


私は夢に気づいてしまったのだ。それをやるために生まれてきたことを思い出させる出会いが次から次へと自分の元へと引き寄せられていたことに、当時はわからなかったけど、わかってきた。みんなに感謝してる。

もう、本当に私は馬鹿なんだってよくわかった。やっと本気で馬鹿を楽しめそうな気がしてきた。こんなこと、凄い人たちは決して言わないでしょう。言うとしたら、笑って一言『頑張りな!』としか、ね。


今の自分にできることを最大限にしよう。未来の自分との再会の鍵は、今の自分が握っているから。






2022年 夏 東京

勇気




嬉しいことが起きた。

YouTubeの登録者数が6人になったのだ。やったー!一気に3人増えるなんて、やっぱり太郎効果かもしれない。プラス、いいねが12ももらえるなんて、、。これはもう奇跡じゃないか。

間違っても自分の力なんて勘違いしてはいけない。私は色んな存在から力を分けてもらい、行動しているのだ。自分がやりたいと思って動いたことすら、神の采配の一環であることを念頭においておかなければ、少しずつ違う方にずれていってしまう。

私がやりたいと思ってやることは、私の個性を活かして、あなたと私は同じもの(ワンネス)であることを伝えるためだと受けとめている。

この国が壊されてから現代に至るまでに浸透してしまった概念のすべては、私個人の考えで言うと、幻想(という名のゲーム)である。そのゲームは私が創り出したものでは無い。自分が面白いと思って創ったわけでもないゲームに生まれてすぐから強制参加させられてきた。その世界からようやく脱出した(まずは意識の上で)のが今で、まだ日が浅い。幻想が幻想を叩き、殺したり殺されたりしていく腐りきった社会に一隻投じたい。幻想の生みだした何者であるか、という肩書きの上での表現では、個人の本当の声を伝えることは難しいのではないか、ずっとそう考えてきた。自分がこれまでしてきた経験のなかでも、何者かになったかのように振る舞い、演じるように働け!と、無言の圧力を受けたことがあり、その度にどうしても、私は私でしかいられなかった。演じた方が楽なこともよくわかっていたし、その方が会社の売り上げのためになることも知っていたし、そんな私を上司が扱いづらいと思っていることにも気づいていたが、仕事の顔で仕事をすることは、まるで身を売るかのようで、やはりできないものはできなかったのだ。(相当面倒くさい人だったはず)

今きている宇宙大変革の流れのなかで、自分がどうしたらいいか、どうしたいか、言わば魂の覚醒が起きている人はだいぶ増えてきていると思うのだが、やはり、本来の自分の姿で行動することの怖さに、一歩を踏み出す勇気が出せない人も多いと思う。私も本当に怖かったからよくわかる。その怖さが幻想であるとわかったとしてもだ。なぜなら、私は傷つくということを経験してきた心のある人間だからだ。

ただ、今では有り難いことに、学校の先生から教われなかった大切なことを、バシャールやエイブラハムやエクトンのような宇宙先生たちが地球に介入し、教えを説いてくれている。意識交流を担当してくれている人や、更には、それを伝え広めてくれている人たちもいる。何が幻で、何がほんとうか、今この瞬間に心に平安をみることができた時に、わかるのだと思う。

って、大いなる存在を持ち出してしまったが、いちばん自分に影響を与えてくれたのは、やはり、私が私の人生で出会ってきた人たちだ。その人たちとの交流を通して、学んだことが大きい。出会った人たちがみな、この世の理を知っていて、私へと大事なことを教えてくれたわけではない。その時々をお互い懸命に生きるなかで、様々なカタチで(心地よくない経験も含めて)影響し合ってきたのだと思う。すべては本来の自分を生きるため。グループソウルだったのだろう。集団で転生してきていると思う。

私は今、自分(自我=エゴ)から離れて本来の自分で表現ができるようになってきたところだ。この地球に生きる人たちはみーんな自分と同じものでできている。だから、どんなにバカにされても、笑われても、人間としての経験上、痛みは避けられないが、私は神さま(魂の源)に守られている。

話が前後するが、YouTubeの動画に明らかなディスりコメントがきた。初めての経験なので、見た時一応手が震えた。身体の反応はわかりやすい。私は、''すべての人はいつかの自分''という信念をもっているのだが、私が生きる理由のひとつに、その、いつかの自分のために行動しよう!という想いがある。私をディスった人もいつかの自分だ。幻想を生きていた時の自分。真意など伝わらないかもしれない。だけど、コメントを書き込むということは、その人の何かに触れたということだろう。そこに希望をみたいと思う。いいも悪いも表裏一体だ。幻想に付き合う気はないが、全部受けとめたい。自分を含めた全体のために。

自分は自分が思ってきた以上に、勇気があることを認めた。私の尊敬する先人たちに習って、強い気持ちで行動していきたい。

地道な一歩の積み重ねで、道が拓いていくと信じて。


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下書き保存から3h経過


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ごはんを食べて、滝藤さんの写真を見ながら、柄シャツイン柄シャツという、彼の常人には決して真似できない突出したファッションセンスの異常なカッコ良さに、ワーキャー言ったりしていたら、急に、『私は一体何やっちゃってんだろう?笑』という気持ちが降って湧いてきた。ディスりコメントを書いてくれた人の方がまともなんじゃないか?とまで思えてきた。これはもう、もしかしたら、私は私で遊んでることに気づいてなかっただけなんじゃない?って視点に立ち返る。さっきまでは、自分のやっていることに正当性を持たせようとして、必死に弁明しようとしていることが、文章を読んで伝わってくる。きっと、ディスられた自分をかばいたかったのだろう。

嗚呼、なんて健気な私。

人間業界を生き抜くために、傷つかないように、自分で自分をかばうなんて。そういうことをずーっと長い間、無意識にやってきたんだろうな。なんかそう思うと尚更自分が愛おしく感じられた。

よし、ここからは、『何やってんですか?』て笑われたら、ただひと言「あそんでます!」て答えよう。だって、やりたいんだもん。もっと言ったら、あそび=しごとの時代が到来したと思いたいのだ。私を見て笑ってくれたなら、それがどんな理由だろうと、いいじゃないか。相変わらず頭のかたいクソ真面目な私に大事な気づきをくれた人に感謝しよう。そうしよう。


今日はもうひとつ非日常的な体験をしたので、話したい。菊理媛という神様に呼ばれて行った神社からの帰り、最寄り駅の改札を出たところで、大きな紙袋を提げた外国人の女の人に呼び止められた。その人は日本語で書かれた紙を私に見せながら、『クッキーを買ってください。』と言った。紙には、『わたしのなまえはシェリーです。お金に困っているので、クッキーを売っています。買ってください。』的なことが書かれている。どんなクッキーかというと、外国版のキットカットみたいな個包装のお菓子が5個、透明なひとつの袋に入っていた。私は咄嗟に「いくらですか?」と尋ねた。すると、『ゴヒャクエンです。』と返事が返ってきた。キットカット5個500円は完全にぼったくり価格だ。..どうしよう。ちょっと悩んで「ごめんなさい!」と言ってその場を立ち去った。実は以前似たようなことがあり(非日常じゃないんかい!)ホームレスと名乗るおじさんに、お腹が空いて死にそうなんでお金ください🤲と至近距離で直訴され、面食らった私は、思わず500円玉を渡したら、明らかに不満そうな顔をされるという苦い経験をしている。貰っといて不満そうな方にも問題あるじゃん!笑と、今なら冷静に思えるのだが、あの時は、千円も渡せなかった自分を情けなく感じ、お金を出した自分の方が自分を責めるという事態が起きたのだった。

シェリーから離れ、歩きながらよく考える。あの時の自称ホームレスのオッサンとは今回は事情が違う。だって、キットカット5個500円は確かに高いけど、それでも、シェリーなりに考えて、キットカット5個と、500円を交換してもらえないかな?という気持ちでやった切羽詰まった勇気ある行動に、私は気持ちで応えられなかったのかと思ったら、そんなちっさい人間に成り下がるなんて、以前の経験がまったく生かされていないじゃないか!と、自分に怒りが湧いてきた。すぐさま引き返す。シェリーに『やっぱり買います!』と言って、500円とキットカット5個を交換した。シェリーに喜ばれる。『ありがとうございます。ᴛʜᴀɴᴋʏᴏᴜ𝒗𝒆𝒓𝒚 𝒎𝒖𝒄𝒉!』と、笑顔で何度も頭を下げられた。

帰り道、「シェリー、一度断ってごめんね。しかも、千円渡せなかった私を許してね。」と、心のなかで呟く。

次、こんなことに遭遇した時には、絶対、黙って千円渡せる自分になっていよう!と、固く心に誓った。

情けない自分からは、卒業の時が来ている。







白龍は笑っていたのかもしれない








山本太郎




私は山本太郎が好きだ。

天才たけしの元気が出るテレビの時代から知っているし、ダンス甲子園のどのグループより、私はメロリンQが好きだった。メロリンQを見るのを毎週楽しみにしていた。その頃から太郎は、夢は総理大臣になること!と、ほんとか嘘かわからないけど、宣言していた記事が今も残っているから、ふざけていたようで、信念はちゃんと持っていたのだと思う。

最近のれいわ新選組の躍進ぶりには目を見張るものがある。2019年、太郎はたったひとりで政党を立ち上げた。8年の準備期間中には、色々突飛もないことなどもやっていたようだが、それらすべてを生きた経験として自分の血肉にし、彼の今があるのだと思うと、メロリンQイズムは健在なのだろう。そして、この3年の間にそんな彼の仲間はどんどん増えてきている。共に政治家として闘う仲間から、支援する仲間に至るまで、幅広い。私は一度自分の目で演説が聞いてみたいと思っていた。連日都内某所を駆け回り、毎日YouTubeには録画がアップされてはいたが、目の前で彼のエネルギーを体感したいと思っていた。そうしたところ、なんと今日、神がかって色々なタイミングの良さが連鎖し、ちょうど明治神宮参拝に原宿駅に着いた14:50の10分後に、同地で、れいわ新選組山本太郎登場!という、引き寄せが起きたのだった。しかも、最前列で、山本太郎本人との距離はわずか1mという至近距離での拝聴となった。私は運がいい。

登場し、話し出した最初の印象は『ガードしてるな。』だった。パフォーマンスっぽさがあった。ずっとこういう感じで進むのかと、少し懸念しながら見守り続けたが、時折後ろを通る車の運転席から、『山本太郎頑張れ‼️』とか声がかかったり、信号を挟んで反対側の人たちからも手が振られたりと、場が和みだしたら、ちゃんと山本太郎は、山本太郎としてそこにいることがわかった。私も応援モード全開でエネルギーを送っていたし、周りの人も概ね私寄りな人が多かったように見受けられた。好意的に見守られながら話すのと、完全にアウェイ感を感じながら話すのとでは、まったく違うだろう。最初のガードも頷ける。場所によっては、厳しい現場も少なくないだろう。

正直言うと、私自身、政治に関する知識は薄い。今わかっていることと言ったら、これまでの政治(一部宗教)もテレビも芸能界も新聞も大企業も全部グルってことぐらい。そこんところを、山本太郎ははっきり公言してるし、支配者層の一部がお金をせしめていることにより、大多数の国民一人一人が苦しめられてきた事実と向き合い、過去傍観者だった自分からまず変わろうと行動したところに、現在進行形でし続けているところに、本当に頭が下がる思いがした。演説の途中でちょっとウルっときて、「太郎ありがとう!行動してくれて本当にありがとう!」と、心のなかで唱えた感謝の念を彼へと送った。エネルギーとして伝わり、力になれば嬉しいが、どうだろうか。

私は政治は山本太郎(れいわ新選組)に託すと決めた。自分の感覚で見つけた魅力的な人間に一票を投じる。それは、とても単純明快な決め方だ。その人物が好きだから。それだけで問題ない。今回の参議院選挙は、色々ほかにも面白い政党がたくさん参戦している。明治神宮前では、時間をずらして、ごぼうの党なる、党首が天狗のお面をしてる謎の政党が演説をしていた。天狗なわりに、話し方とかやけにソフトでギャップにややウケしたけど、何にせよ、若い人たちが政治に関心をもつならいいことだと思った。

山本太郎の話ばかりしてしまったが、今日は凄い一日になった。東京大神宮で、すべての恋愛成就祈願する人たちの願いが叶いますようにと、いつにも増して責任感を感じながら参拝したところ、なんと、目の前で結婚式が始まった。心のなかで『おめでとう!』と叫ぶ。東京大神宮は、一部神様がいないと噂されているが、私はいると思っている。あそこの氣は清浄だと思う。(あくまでも自分の感覚)いつもなぜか参拝中に、太鼓が鳴り出したり、舞が始まったりと、タイミングがいい。私との相性がいいのかもしれない。そして、近くのお稲荷さんに呼ばれてご挨拶し、明治神宮では久しぶりに清正井にも行けた。過去にはパワースポットと騒がれたことで、人が押し寄せてしまい、欲が渦巻いていると言われたこともあったが、今は静かでとても清々しい美しい水が拝めた。有難い。

今日たまたまTwitterで目にしたツイートに、仕事を志事と表現している人がいたのだが、それってすごくいいな、と思った。仕事だと仕える事だが、志事なら志す事だ。私は今、仕事をしていないが、志事なら毎日している。しかも今日はいい志事をした。山本太郎から、ひとりでも行動する勇気をもらったから、YouTubeのショート動画もアップした。見てくれた人に私の勇気が連鎖するように、ひとり応援団団長としてこれからも続けていきたい。

これまでの世界で、沈黙を貫いてきた人たちの一人一人が小さな一歩を踏み出したら、怖いものはどんどん消えていく気がする。政治は山本太郎に託したが、私は私の役目を果たしたい。心から愛し愛されてしあわせに安心して手を取り合える男女のご縁結びにここから一層力をいれていきたい。

勢いのある流れに乗って、気分よく流れていようと思う。







心ある人間の顔つきだった



単衣




暑い。はやくも梅雨が恋しい。

少しでも涼しい気持ちになりたくて、今日のタイトルを単衣にした。単衣とは、初夏から初秋にかけて着る、裏地のない季節の着物のこと。単衣(ひとえ)という響きは、なんとも涼やかで、たおやかな、女性らしい美しい日本語で好きだ。いつか単衣が似合うような大人の女性になりたいと憧れているが、今はもう真夏は半裸で過ごしたい私にとって、夏に着物を着ることのハードルは年々上がり続けている。

黄色に元気をもらいたくて、向日葵を買いに商店街の花屋へ行った。店頭で、向日葵とミニ薔薇の花束が目に留まる。先客がおり、その人は私よりも小さい女性で、タトゥーをいれていて、パッと見、年齢不詳な感じの人だった。熱心に花束を選んでいて、選んだガーベラやミニ薔薇のピンク系の花束を手にしながら、お店の人に『あと、〇〇のお花ありますか?』と話しかけている。お店の人は『あるけど、もたないよ。(暑いから)』と、ぶっきらぼうに答えていて、それでもその人はそのお花が欲しかったようで『お母さんにプレゼントしたくて。』と、付け加えた。お店の人はそれを聞いたら黙ってその人の希望するお花をケースから出してきて『…それと一緒にしてあげるから』と、対応してあげていた。私はやりとりを見ていて、とても嬉しい気持ちになって、こういう場面に出くわすことって、''本当に嬉しいなぁ〜''と、じんわりと胸に広がる温かさを感じて、ほっこりした。

ちょっと前に、3階にある家の部屋で洗濯物を干していたら、家の前の道を小さな女の子がお父さんと通って、ちょっとしたらその子だけ戻ってきて、上を見上げたもんだから、洗濯物を干していた私と目が合った。私はその子にニッコリ笑って手を振ったら、その子が小さな手を振り返してくれて、''ああ、なんてこと!''なんて、最高にしあわせな気持ちになったのだった。

日常で出会うしあわせの瞬間。小さな物語がそこにはある。


私は今、お金との関わりから、様々なことを学んでいる。お金が手元にない(お金はある。無限にある。いま私の元にないだけ)状況になると、例えば、すぐに買い替えられない冷蔵庫や洗濯機が故障した場合、ものすごく困る事態に陥るわけで、そう考えた時に、感謝のハードルが激下がる。動いてくれているだけで本当にありがとう!ボタン一つで洗濯してくれてマジでありがとう!冷たいものが即座に食べれて(飲めて)マジでありがとうしかない!といった気持ちに自然となる。これが、もしも今まで通り、普通に働いて、普通に給料もらって、普通に生活に困らない程度の収入があった場合、洗濯機や冷蔵庫にありがとうは多分言わないだろう。私は今しか感じられないありがとうを、お金により、学ばせてもらっている。豊かさはそこかしこにあり、それに気づける状態にあることの貴重さ。向日葵ひとつとっても、無償で豊かさを与えてもらっていることがよくわかる。

私は今、お金との付き合い方を一旦リセットしているのだと思う。これまでの思考だと、なくなることを恐れて、なくならないように、なくならないようにと、その恐れに基づいた行動をしてきた結果、困らない程度の富しか得ることはできなかった。常にお金が富の中心にあり、生活が困らないためにしか、生を活かすことができなかったのだと思う。表向き、この世の悪のシステムに思考をコントロールされ、無意識に選択を続けてきてしまったと言えるのだけど、実はその裏には本当に深い深い理由があり、''自分の現実は全て自分が望んだ結果である''という真理が腑に落ちた時、私が本当に恐れていたことは''他者から嫉妬されること''だったということに気がついた。人より目立つと嫉妬される。好きなように振る舞うと嫉妬される。人よりいい暮らしをすると嫉妬される…。嫉妬されたくないがために、環境も人間関係も人より下に身をおく(3次元的発想ですが)ことで、避けてきた。その方が楽だったからだ。それは現世での経験も影響が無いとは言えないが、やはり根底には過去生の影響も強いだろう。過去生からの集合無意識とも言えるだろうし、女性性の闇にも関係する。本人は気づいてなくとも、私と同じように、この国には、目立つことを恐れて、自分の能力を押し込めて生きてきた人が五万といると思う。(というか、殆どみんなそうなんじゃないかな)

だけどもう、そういった負の産物は宇宙の采配により、すでに終わっているとみている。だから、新しい流れにみんな自動的に乗ってるのがほんとうで、その流れに気分よく乗ってるだけで運ばれていくなかで、過去の思考が抵抗したり、頑張ってなんとかしなきゃ!と躍起になったり、そういう段階まで有難いことに来ていることに気づけない(情報により気づかせないようにされている)人が多いだけなんだと思う。

この世界のすべてはエネルギーだと考えた時に、豊かさのエネルギーは豊かさに精通している。同じ波動同士が引き合う。ひと足先に富を循環させている人達は、口を揃えて同じことを言っている。私はそれを信じたので、実体験を通して、豊かさがどんなカタチで、お金となって自分の元へと流れてくるのかを、たった今現在進行形で実験している。自分が世界に提供できる、本当の生の活かし方をこれから見つけていくのだと思う。できることならば、自分と同じような境遇に身をおいている人たちと、楽しさを元に、一発逆転ホームランを打ちたいと狙ってる。手持ち金がないところから、ひとりひとりの力で、世界をひっくり返したい。お金で買えない人間としての価値を与え合って、豊かさのニューウェーブを巻き起こしたい。そんな発信をして、人と人を繋いでいけたらと、ずっと的を絞って考えつづけている。

すべてが真新しいチャレンジだ。

とびきりの奇跡はある日突然起こる!

自分の気持ちが上がる言葉に意識を向けて、一日一日を大切に生きたいと思う。







夏の色