シュリ日和

まいにちに生きる

シャンバラ






目を閉じて

感じてください








今この瞬間に

思い出してください

わたしたちの心を








美しい海

美しい川

美しい湖

美しい滝

美しい泉








この地球を循環している

愛という水のエナジー








シャンバラとは

場所ではなく

心であることを








たとえ

それらすべての

カタチが失われようと

心は

愛のほかに

奪うことはできません








もう一度

目を閉じて感じてください








遠き日の美しい情景を








あの日の心は

今も変わらず

生き続けていることを









今ここに

あることを









父なる海よ

May Day

 

 

 

今日は朝から一日中ハワイの日🌺

最近また独学でフラを学び始めた。あの喜びの踊りを身につけたい。週に一度の習い事のようなものではなく、日常に溶け込む祈りのように文化としてのフラに身も心も染まりたい。

恐らく日本とハワイは大昔は大陸もひとつだったと思う。レムリアやムーの記憶。これだけハワイ好きの日本人が多いことにはちゃんと理由があるのだろう。

ハワイと日本は、私たちの心に精通する文化や、自然を崇拝する精神がとてもよく似ている。

昨今日本では、自然と共に神聖な精神もどんどん破壊されてきているようにも見えるが、例えカタチを失っても、心ある人間が死に絶えない限り、全てを失うことはないだろう。ほんとうに大事なものは神によって継承されていく。その意志を受け取ることが、今を生きる人間の使命だとすら思う。

自然の声を聴く。私たちに語りかけている愛を感じる。笑顔に感謝の想いを込める。数年かけて、最期のインディゴの魂は愛の元へと送り返した。これから私たちが歌う愛と喜びのレクイエムが、地球を世界を癒すだろう。もう正義のために戦う必要はないのだ。先祖から受け継いだこれまでの使命は終えている。胸を張って、顔をあげて、自分の信じる道を進めばいい。

 

今月に入り、フラとはまったく違うルートでハワイとの繋がりができた。以前YouTubeにアップした''南の島に暮らしてる私''が引き寄せたのかもしれない。そして、生まれて初めて、過去世リーディングなるものを受ける機会に恵まれ、数多い過去世の中でも、今世に最も影響を与えていると思われるひとつの過去世を知った。

 

**

時は中世ヨーロッパ。10歳くらいの金髪の縦ロールの髪型のドレスを着ている女の子。絵に書いたようなお城に暮らしてる、ザ、お姫様。英才教育(ピアノや勉強やなんやかや)などには、これっぽっちも興味がなく、気がつくと、庭で仔犬と転げ回って遊んでいて、いつも執事や侍女?を困らせている。『お嬢様!お部屋にお戻りください!』が彼らの口癖だ。無邪気でお転婆ないたずらっ子。そんな明るくて元気な子だが、広いお城に父と母はいない。夜になると、淋しさで、ベッドでお人形を抱きしめて泣いている。いつもひとりぼっちで常にぬくもりを求めていた…。

そんな彼女も成長していくにつれ、家のために期待に応え、いつの間にか本来持ち合わせている純粋さや無邪気さを封印。政略結婚などを経て(ここはあまり鮮明には語られなかったが大体の流れで)中高年期には、ダイアナ妃のような(別にダイアナさんを出すことないけど笑)慈善活動をしたらしい。自分で貧しい人を助けたり、恵まれない子供たちのために、教育の場を提供したりして、人の役に立つことで、子供の頃の自分の寂しさを癒していたという。

 

……もう、''やっぱりね。''としか思えない。だって知ってるもんその子。そして、その子が今の自分に影響を与えていることも何もかも分かりみが深すぎる。ただ、リーダーさん曰く、今の私(この文章を書いてる私)のオーラと、過去世の子供の頃の無邪気でお転婆なあの子のオーラがリンクしているらしく、楽しさやワクワクで物事を動かしていく(カタチじゃない曖昧な…)パワフルな女性性のパワーやエネルギーを感じるとのこと。(よっしゃー!)

 

なるほどなぁ〜。

一見そんなに悪い人生には思えないかもしれないけど、ひとりぼっちというのが大きなポイントだと思った。誰かのために生きた人生だった。それは、家系の問題が大きいだろう。あの時代は、国のため、家のために生きることを余儀なくされたのだ。

女なんて、子どもを産むのが使命のようなもので、ひとりの人間としての尊厳なんて、あってないようなものだったのだろうな。中世ヨーロッパは(日本の戦国時代も)、階級社会の全盛期と言ってもいいだろう。この過去世を元に話を拡げるとするなら、市民は上流階級の裕福な暮らしぶりだけを見て、憎しみや嫉妬を募らせたことだろう。そこに生まれた人間の影になど想いを巡らすことはきっとない。マリー・アントワネットが言ったとされてきた、『パンが食べられないならケーキを食べればいいじゃない?』というあの言葉は、政治に利用するために捏造されたであろうことは容易に分かる。市民の怒りを煽るためだろう。邪魔な人間を消すことを画策した悪い人達は自分たちの手を汚さずとも、そういった民衆の集団心理や、集合意識をうまく利用していたのだろうな。その手法は、より複雑に高度に進化し、現代にもまだ残っている。もちろん、星の影響で(ちょうど土の時代の始まりの頃だった)時代が変わるタイミングにあったことが、何より大きい。

結局、どこにどんな風に生まれたかで、人生が決まってしまった時代。地球の闇の歴史(それも必要な流れにあったとは思っています)自分の意思なんてあったところでどうにもならない。籠の中の鳥と同じ。どんな人にも光と影はあったと思う。なのに、いつでも目に映るのは片面だけ。支配世界では、目に見える世界には光と闇という二元を生きる人々という構図。本当はそんなもの無いのに。

支配の概念が、いつ、どのように、誰の手により、この地球に持ち込まれたかはわからないが、本来の血統というものは、単に役割であり、平和な時代の王族は、すべての民のしあわせのために、粛々と仕事をしていたであろうと私は想像している。

わかりやすいから芝居で例えるが、どの役にも優劣など無い。ひとつの芝居を完成させるには様々な役どころがあって、ひとりひとりが自分に一番ハマる役をやれば、その芝居の完成度は高いだろう。主役ばかりにスポットライトが当たりがちなのは、支配社会、身分制度なんてものが、この世界で長く続いてきたからに他ならない。もっとこの先の深い話がしたい気もするけど、もう必要なくなることを深追いしてもあまり意味はないから割愛する。

今とこれから先のことを考えたい。リーディングで視てもらった今の自分と、過去世の子ども時代の私のパワフルな女性性とやらを発揮したい。準備は万端(ずっと言ってるww)私たちはきっと、真新しいものを創造するために生まれてきたのだ。過去のすべてを踏襲し、今ここから始まる未来へ向かう強い意志を持つ。人間としての尊厳を失うことなく、自信を保ちつづける。自然と同調していれば間違いない。

 

大丈夫。もうはじまっている。

大丈夫。気分よく流れよう。

大丈夫。あなたが笑っていれば。

 

大丈夫。きっとうまくいく。

 

 

 

 

 

 

 

クリームオレンジの過去世

 

 

生きてる




ゴールデンカムイが最終話を迎えた。

私がこの漫画を知ったのは、約4年ほど前の夏のある日のこと。夢から覚める時に、自分の口からハッキリと『ゴールデンカムイ』と呟く声を聞いたからだ。……ゴールデンカムイ?……ゴールデンカムイってなんだろう?あまりにもハッキリとした発音だったため、すぐに検索したら、実在する漫画だということを知った。予備知識はゼロ。本当に不思議な話だ。

主人公の杉元佐一とアイヌの少女アシリパに、なんだか他人とは思えない親近感を覚えた。私のなかには、杉元もアシリパさんもどっちもいるような感覚。ほんとに変な例えだけど、私のなかの男性性が杉元で、女性性がアシリパさんなんじゃないだろうか?なんてことを真剣に思うほど、感情移入してストーリーにのめり込んだ。……完全にイカれてる。

作者の人の懐が広く、ヤンジャンアプリで全話無料公開してくれたことで、漫画も買わずして読むことができた。昨日は最終話もあっさり読めてしまった。とっても清々しい結末。杉元の台詞に泣く。あまりにもいいシーンだったため、違反行為と知りながらスクショして保存した。

唯一無二の相棒。旅は道連れ。運命共同体。生きるか死ぬかの旅の最中、杉元と共に地獄に落ちる覚悟をしたアシリパさんの顔は誇らしく、最高に格好良かった。アイヌの人のことはよく知らないが、DNAや民族のアイデンティティを決して明け渡すことなく貫いている格好良さだと思う。

しかし、なんであの日の朝、ゴールデンカムイって呟いて目覚めたのだろう。全然わからない。全然わからないけれど、私にとっては意味があった。それがすべてだ。


なんて、久しぶりの挨拶もせずに淡々と文章を書いてしまったが、4月は半ば頃から風邪をこじらせて、長らくダウンしていた。みなさんお元気でしたか?

2022年も前半戦があっという間に過ぎていきそうな気配を感じているが、何もしない日々を続けたことで、私の世界はだいぶ様変わりした。ここ数年、終わらない紆余曲折を繰り返した果てに、ついに、ただ息をしているだけで、何もしていない自分にも価値はあると思えるようになってきたのだ。これがまずは私の目指す境地だった。これができなければ、すべての人に対して同じように価値をおけないと思ったから。

心理学も哲学も、独学で学びを深めたし(前世から学んでる)今の自分ならヒーリングもセラピーもカウンセリングもできる自信しかない。資格は勿論無い。私の師匠は人生で出会ってきた全ての人で、出会ったひとりひとりの人から大事なことを教わったので、みんなが先生だ。好きな人も嫌いな人も平等に価値がある。

学校に通う必要も、通信教育を受ける必要もなかった。教科書、教材、テキスト、特定の先生から成り立つ勉強には、一期一会の生きた学び以上の学びはできないと思うから。

こんな考えはおかしいだろうか?これまでの常識に挑戦状を叩きつけるような気概と愛だけで、ミラクルを起こせないだろうか?懲りずにそんな戯言をいつもいつも頭の中に巡らせている。

何をしてもしなくても、私には価値がある。私だけは私の価値を認めている。私がずっと大切にしてきたものを、お金や人には決して汚すことも奪うこともできない。その自信を失わないためには、咲きつづけることを選ぶしかない。

この世の中で、定期収入を得る仕事がないことは、ほぼ死を意味する。なぜなら、この世は今現在、金で回る世界だからだ。金がなければ、借金ができる。同じやり方でいる以上、一度落ちてから這い上がるのは至難の業だ。

私は自分の人生に挑戦しているのだと思う。どこまで信じたいものを信じ抜けるか。幻想世界の生み出した不安を元に行動するのではなく、喜びを元に動き出して、世界を変える自分に賭けたい。パーフェクトタイミングは必ずくる。強く強く念じている。

誰とも会わない日々の中で、誰かがそばにいてくれた事の奇跡を知った。当たり前じゃない。他愛ない会話や、交わしあった笑顔。渡し合った儚い想いの数々。誰かのために何かができたことは、自分の喜びに他ならなかった。その人がただそこにいてくれただけで、どれほど自分は豊かでいられただろう。

過去出会った人たちの中には、何故か誰にも打ち明けられなかった秘密を私にだけ打ち明けてくれた人がいた。ある人は、結婚前に中絶した過去があることを、ある人は、誰にも言えなかった親に対して抱いてきた複雑な思いを、ある人は、離婚した過去があり、存在を隠している息子がいることを、ある人は、幼い頃母親が交通事故に遭い、面会に行った時に瀕死の母親の姿を見た時の気持ちを、ある人は、家族のために我武者羅に働いて会社で地位のある立場になったはいいが、部下が自殺していくのを目の当たりにして、大手有名企業を辞めたことを、ある人は、ある人は、、。

何故彼らは私に打ち明けたのだろう。たとえ束の間でも、私はその人たちの心に寄り添ってあげることができたのだろうか。その人たちは少しでも私に秘密を打ち明けたことで、心のつかえがとれたのだろうか。聞いて回った訳じゃないのでわからないが、何者でもない私にも、彼らの、秘密という重荷を降ろすお手伝いができていたのであれば、死んだように生きてたと思っていた過去の私が存在してきたことにも光は見い出せる。

これからは自分も楽しみながら、出会う人たちの良いところを引き出して、天性のキラキラ師としての力を発揮していきたい。太陽を輝かせる時代に相応しいやり方を新しい自分でゼロから始める。本来の自分の使命を純度高く遂行することができるならば、神様に見捨てられることは無いだろう。


できることならば、アシリパさんのように、強く、美しく、美学を貫いて、杉元のような相棒と共に奇跡を起こしたい。










手縫いでハンカチを作った



桜と月

 

 

 

先月、たまたまTwitterでその存在を知った、京都の桜守(桜を守る人)十六代目佐野藤右衛門氏が出演したNHKのBSの番組の再放送が、実家に立ち寄ったらちょうどやっていた。超嬉しくなってテレビの前に正座する。BSなんて自分では見る機会などないから、母に感謝した。母はまるで興味無さそう。私の趣味嗜好に一切の関心がない彼女には、今の私の嬉しさは1ミリも伝わってなさそう。それがまた気楽でよかったりもする。

藤右衛門氏から語られる話は、その価値の重みに相反して、とても軽やかで、力みがなく、真っ直ぐに私の心に響いてきた。瀕死の桜の木を再生させる過程で、枝をくわえてみたり、幹に耳をあて、桜から聞こえてくる声のようなものを聴きとったりと、藤右衛門氏にしか感じ取れないであろう、繊細な感覚の植物との交流。自分は動物で、相手は植物。同じ生き物だから通じ合える、と言う。

隣に座る出演者が、『愛情をかけていらっしゃるんでしょうか?』みたいな言葉を投げかけたら、『愛情?いや、そんなもんじゃなくて、ただ状態を聞いてるっちゅう感じかな。』なんて答えていて粋だった。ただ、感じること。受け取ること。愛情とはちがうもの。

徳川家と関係のあるどっかの寺の桜の屏風の話では、古木の風格に対して、花は艶やかで和みの要素がある。そんな桜の絵には、緊張感の中にもふっと肩の力が抜け、心を和ませる効果がある。というようなことを話されていて、テレビを前に、''なるほどなぁ〜''と、頷く。

コロナ騒動の最中、始めてリモートで桜の植樹の指導をした時は、『そうじゃない!そうじゃない!それはやっちゃダメだ!』と、大層やりにくそうで、本人曰く、やっぱり、見て聞いて触れるから分かることがあると仰っていて、''そうなんだろうなぁ〜''''そりゃあそうだよなぁ〜''と、桜のことは分からないが、子育てをした経験がある私は、この話を子守に重ね合わせて親身に聞き入った。

桜が一年に一度、花を咲かせる間の360日が桜守の仕事だという。ほぼすべてが仕事期間。桜が花を咲かせるほんの僅かなひと時だけが、桜と共に愉しむ時間らしい。おいで、おいで、という声が聴こえると。360日お世話してる人にその声が聞こえないわけがない。

思いがけず、素晴らしい教えを得た気分。

 

ここで、桜守十六代目佐野藤右衛門氏の著書、【桜のいのち 庭のこころ】より抜粋した文章を載せたい。

 

『  桜は月に引かれるというか、自然の営みには月が大きく関わっているみたいですな。

ですから桜がいつ頃咲くかは暦を見ていたら分かります。

満月に向かって咲きよるんです。

北の方へ行くとまた変わりますけど、京都あたりだとだいたい満月に向かって咲いていきますわね。

わしは月が咲かせるんやと思いますわ。』

 

月が桜を咲かせている。

桜守と子守。植物と動物である人間。

月が咲かせるのは、果たして桜だけなのだろうか。目を閉じ、心を鎮め、見えないものに想いを馳せる。

 

藤右衛門氏が桜と向き合う時のような力みのない心で、17日の満月には、ただ真更になって春の月を愛でたいと思った。

 

 

 

 

 

 

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満月に向かう

また会えるよ




連日の風が心地よい。

初夏を思わせる爽やかな気候が昔から大好きだった。桜が終わって、青々しい緑の葉が目に眩しくなる頃、長い冬の間に縮こまっていた心が徐々に解放されていくようで、自然と身体も活動的になっていく。


私は今、とても満たされている。自分で自分を満たしたというより、余計なことをしないでいたら、勝手に満たされた。愛の集合意識をしっかりと感じている。自分ひとりの力ではない。協力し合っている存在がいる。エナジーとして受けとっている。それはもう感覚でしかない。いつも大事なものは目に見えないけれど、大事なものも見えたらいいな、という想いで、ただ純粋に愛してきた。見返りなど求める必要が無い。愛せば愛は返ってくる。愛されていないと感じてしまうのは、愛していないから。自分から愛の波動を出していないだけ。それだけなのだ。

少し前に流れに全てを委ねた。自動モードに設定した。今の私にはまだ何もやることがない。だから、毎日ただひたすらに愛している。目に見えてる世界に貢献できていることは何もない。それでも、そんな自分にも価値があると思えるようになるまでは、貫こうと決めている。なぜなら、私がそう思えたら、私の世界のすべての人が、何をしなくともその存在に価値があるという証明になるから。

何かをして、成果や結果を出して始めて価値が認められる世の中ではなく、その人がその人であることに唯一の価値があることをひとりひとりが実感できるようになったら、そこから、ほんとうの平和な世界が始まると思う。ひとりひとりが、誰と比べることなく、堂々と自分という命を生きられるようになったら、私が嬉しいから。

誰かを頼ることが苦手だった長い年月、ひとりで考え、ひとりで決め、ひとりで動き、いつでも自己完結、自滅の日々だった。何をやっても効率は悪く、不器用なまま、無駄としか感じられない時間を過ごしてきた。そんなだから、自分のことは大嫌いで、心のなかでは、目に映るものすべてを憎んでいた気がする。やってもやってもなんの喜びも感じられない。何年も何年も、何も変わらない。自分なんてどこにもいなかった。心の底から笑うことも忘れて、ずっと無表情だった気がする。鏡で自分の顔をみることもほとんどしなかったから。喜怒哀楽がほぼ無い世界。あの時の自分を、ただ生きているだけで価値があるとは、今の私も思い難い。だからこそ、今の自分がどうあるか、それだけに集中する。過去は変えられる。愛せなかった自分、許せなかった自分を、今の自分が超えられた時、世界は一瞬で変わるのだ。

自分が生きたい世界を自分が創造する。

どんな世界を生きたいか?どんな自分で生きたいか?全部、一から自分で決める。誰にも邪魔されないイマジネーションの空間で、意識の中の自分に羽を与えて、自由に飛ばす。人々が寝静まった頃、夜空を飛びながら、キラキラの魔法をかけて回る。楽しい。私にしかできない、私だけの魔法だ。

私の魂と縁があると思われる、戦国武将の武田信玄は、''戦は魔法なり''という言葉を言ったとか、言わないとか。いつだか、目に留めた記憶があるものの、その後いくら情報を探しても、そんな言葉は二度と見つけられなかった。だけど、私の内にこの言葉は鮮明に刻みつけられている。そのことに意味がある気がしている。

''戦は魔法なり''

カッコいいな、信玄。(言ってないかもだけど)


私は今世、地球に、日本という国に、女として生を受けた。そこには、本当に深い深い意味がある。過去生には興味があるから独自に探求し続けているのだが、私は地球(日本)に転生している回数は多い気がする。特に魂に刻まれた傷や罪の意識が根深い、平安時代(源氏)と江戸時代(戦国時代)の記憶。フランス、エジプト、インド、中国、その辺にいたこともあるような気がするし、もっといっぱいあるだろうけど(ざっくり笑)直近の転生の記憶が鮮明なのか、それとも、濃い記憶が優位なのか定かではないが、日本には深い縁があることは間違いないだろう。

成し遂げられなかった想い。奪われた幸福。きっと闇の仕事もしてきたのだろう。自由などない時代を生きた記憶が、魂の歴史に刻まれている。

今の時代、地球に集団で転生してきている、という話はもの凄く信ぴょう性が高い気がして、無視できない。

私の人生の主役は私だから、基本的には自分が感じていることも、誰にも理解はされなくて当然だ。でも、私の魂と何らかの縁がある人は、もしかしたら、文章を読むだけでもビビっとくるものがあるかもしれない。そう思い、このブログに色々と書き残している。いつか、再会する日がくるかもしれないという、希望を抱いているから。


ほんとうの自分にどんどん還っていっている今、今世を私らしく生きて、楽しさで過去の自分を超えていきたい。







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チューリップ満開🌷









見えない世界で起きたこと

見える世界で追いかけても

追いつけない






僕には君のほんとう以外

感じられない






紙一重世界線






頭がおかしいと

思われる方が普通でしょ






だから

ほんとうを知ってる

僕といるのが

怖かったんだろう






吹いてるよ風が

あの日から

ここに

僕らのすべてを

吹き飛ばすため






その優しさに

気づいているかな






呼ばれていたんだ

もうずっと前に

ここではないって

囁きを

雑音に気をとられては

聴き逃した






あの一点で

待ってる光






僕らが重なる瞬間

見えないものを

照らし出す光






誰よりも厳しくて

何よりも安らかな光










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いつでも降り注いでいた