シュリ日和

まいにちに生きる

バランス



時間の流れが早すぎて身体が追いつけない。2月もあっという間に過ぎ去っていったが、3月はさらに早く感じられる。


つい今しがた、感情が大きく乱れる事象が起きた。

売られた喧嘩に怒りが頂点に達し、破壊の言霊を我慢できずにぶちまけてしまった。

意識的にエネルギーを丹田に落とし込む冷静さを欠いたまま突っ走ったわたしは、その後しばらくして落ち着きを取り戻した時に、自分の精神の未熟さを痛感するばかりであった。


猛省からの猛省。


怒りの鏡を笑わせるには、自分から笑うしかない。怒りに怒りで対抗するということは、表対表の戦いに終始する。

怒りを笑いに変えるには、裏を出さなければならない。表対裏となれば、ひとつになり消滅する。

磁石で例えよう。

N局とN局、S局とS局では反発する。

しかし、N局とS局では仲良くくっつく。

怒りを鎮めるには、火で対抗してはダメだ。怒りには水を出すのが効果的であろう。燃え盛る怒りの炎を弱めるのは、柔らかい水の力が必要だ。''先手必勝''の言葉があるが、''後手逆転''(勝手につくった造語)という考え方もありかもしれない。


わたしの好きな人生哲学に、''負けて勝つ''

という考えがある。


今日の敗因は、負けれなかったことにある。


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さて、最近何かとエヴァンゲリオンが熱いが、先日プロフェッショナル仕事の流儀という番組で、庵野秀明スペシャルを観た。

非常に興味深く熱心に鑑賞。

4年の密着取材により構成された番組のおかげで、庵野秀明という人間を少しだけ理解できたことにより、エヴァンゲリオンをただの一度もみたことのないわたしでも、エヴァンゲリオンという作品がどうしてこんなにも長い年月、人々を惹き付け続けてきたのかが僅かながら分かった気がした。

作品を見たことのない人間が深いことを語ることはできないが、庵野秀明という人がこの世を生きていくには、あの作品が必要だったのだろうな、とは感じた。そして、あの作品を愛し続けた人たちにとっても、原作者と同じように、生きていくためにあの作品が必要だったのかもしれない。

これくらいの感想なら、ファンの方々からも許されるのではないか?と思っている。


わたしが常々願っていることは、わたしの代わりはいない(きかない)生き方をしたい。ということだ。


庵野秀明はきっとそんなこと考えもしないだろう。ただ、自分はこういう風にしか生きられない、をギリギリのところで続けてきた結果、庵野秀明の代わりはこの世にひとりもいない、という今があるのだと思う。


例え人があまりにも特異な個性の人物であるから、自分事として受け止め難いかも知れないが、わたしは、この考えに関して、著名人も一般人も、世間への影響の大小も、関係ないと思っている。

誰にでも、ひとりぐらい、自分にとって代わりがきかない人というのは、いるのではないだろうか?

それは必ずしも家族であったり、恋人であったり、友人であったり、身近な人というわけでもなく、ある人にとっては、何十年と通い続けたお店の店主かも知れないし、愛読書の著者かも知れないし、学生時代の恩師かも知れないし、あんまりいい例えが浮かばないけど、とにかく、そこにはその人がいて欲しいとか、その人を想うと勇気が湧くとか、なんかそんな風に、どんなに歳を重ねようと、変わらず自分へと良い影響を与え続けてくれる絶対無二の人。


その人たちの共通点は、その人でしかいられない生き方をしている、ということではないかな?


わたしたちひとりひとりが、自分でしかいられないという生き方を始めたら、かならず、誰かの絶対無二の存在になり得る気がするのだ。欠けたところのない人間などいない。みんなどこかしら欠落していて、それを補い合う人との出会いと関わりにより、不完全な自己をそのままの姿で受け入れられるようになっていくのだと思う。

それは、ひとりではできないことだ。

だから、わたしたちは他者の存在を必要とする。そこには本来愛しかない。

抱く想いは感謝しかない。

わたしはそう思う。


捏造の歴史から連綿と続く偽物の文化を壊し、本物だった時代から大切に守り受け継がれてきたわたしたちの生命の水脈と新たな結び直しをすることで、ひとりひとりのほんとうの命が輝き出す未来を創りたい。


管理社会から脱走し、愛し愛されていることを実感できる社会を、ひとりひとりの創造でつくり変えていくことができると、信じたい。



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桜という情緒