シュリ日和

まいにちに生きる

ピクニック



きのうはピクニックをした。

場所はいつもの秘密の丘。

対岸には、満開の金木犀


風に乗って、甘い香りが流れてくる中、パン屋さんで買ってきたカンパーニュに、家から持参した、アボカドとキュウリを挟んでサンドウィッチに。

バターを塗って、ハーブ塩とオリーブオイルをすこし。シンプルな味つけでいただく。

風が気持ちよく、空っぽな身体に栄養が行き渡る。

ドリンクはアップルタイザーと決め込みたかったが、お店になく、泣く泣く炭酸水でガマンした。


最近ランチの女王を全話見た影響か、ランチに対する熱い想いが再燃する。


わたしが以前勤めた飲食店も、元々不動産会社を経営してた社長が、安くて美味いランチの店(街の洋食屋さんのような)が近くにあったらいいな、という、私情から始めていた。お客さまのためを思っての経営方針が、満足のいく給料をもらえず、私利私欲に走った従業員の反感を買い、わたしが入社する半年ほど前に、全店舗の店長がある日突然一斉に消えるという騒動が起きた会社だった。


今思えば、すごい話だ。


話は逸れたが、その店で働いてた頃、ランチはいつも満席で、毎日が嵐のように過ぎ去っていった。

でも、料理長はじめ、キッチンスタッフ、ホールスタッフはみないっさい手抜きせずに、本当に真面目な仕事をしており、お客さんもみんなおいしそうに料理を食べていて、今でもわたしはあの店で働けたことを誇りに思っている。


キッチンで働いた数ヶ月の間、料理長がわたしの指導に熱が入るあまり、オーブン上のライトを誤って叩き割ってしまうことなどもあり、あの日々は、まさに毎日が真剣勝負であった。(約2年半ほど前のこと)

わたしは死ぬほど怖かったけど、たぶん料理長やキッチンスタッフは真面目な顔して面白がってたんだと思う。やっぱりどう考えてもあそこにわたしがいたこと自体が不思議。

今となっては、期間限定のひとつのパラレルにいた気分だ。


それにしても平和だ。


こんなに和でよいものかと、不安になるかと思いきや、まったく不安などない。

束の間の人生のバカンスを楽しんでいる今なのである。


やり尽くした証に、この心の平安があるのだと思う。


時代と、神様と、人と、場所と、様々な要素が絶妙なタイミングとバランスで成り立ち、わたしはそこで踊っていただけ。

共に過ごしてくれた人たちには本当に感謝している。


基本、わたしの発言は実体験に基づく持論(自論)のみだが、それ以外、自分が発信できることなどあるだろうか?

と、勉強嫌いな自分を肯定すべく、最近では開き直っている。


さっき、YouTubeで、ひとつの概念に対するまったく真逆の発信をしている二人の人の動画をみた。

ひとりの人は、実体験を通して、その概念があることを知り、そこから生まれ変わって今の自分がいる、というようなことを言っており、もうひとりの人は、その概念に対して、以前から疑いをもっていたところ、宇宙からそんなものはない!というメッセージを受けた。という話だった。


概念なんて、あって無いようなものかもしれない。けれど、自分の体験を通してそれが意味を持ちはじめるのなら、それは有るということになると思う。だから、信じざるを得ないということになるのだと思う。これは自然なことじゃないだろうか。


率直に言って、実体験を通して語っていない人の話には魅力がないな、と思った。

さらに言うなら、その人がその概念を信じる気がないから、宇宙から無いというメッセージを受けたんじゃないか?とも思った。意識が現実に反映するなら、そういうことになるのも頷ける。


似非スピリチュアルに共通しているのは、そこに人間として生きている本人の体験が絡んでいない点にあると思う。


魂は肉体のある人間でしか味わえないものやりたくて生まれてきてるのに(わたしは生まれた時から自己責任だと思っています)概念ありきで何かの答えを見つけ出すことに何の意味があるのだろう?

あなたがあなたである意味が一体どこにあるのだろう?


ということで、シュピリチュアルでは全面的に、あなたの体験を推奨します。あなたがあなたのやりたいことをやった先に(やりたくないことをやらない先に)、開く扉がたくさんあるはずです。


例えるなら、あなたが安心したいのなら、あなたを不安にさせるものを避け、楽しくなったり、嬉しくなるものを見たりやれば良いだけで、あなたが不安を味わいたいなら、あなたを不安にさせるものを選べば良いだけです。


簡単に楽してしあわせになったっていいし、修行のように積み重ねた先に何かを手にする生き方をしたいならすればいいし、自分が好きなようにしたらいい。どんな自分も、自分だけは自分の味方でいられたら、だいぶいい。


なんでもいいんだよ。

誰が何を言おうがやろうが、その人が信じてる(信じたい)世界を生きてるだけなのだから。

自分がそれをどう感じてもよいと、自分を許せるかどうか。

そして、自分が何をやってもよいと、自分に許可を出せるかどうか。


わたしはそう思って生きています。



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綺麗なラテアートだった