シュリ日和

まいにちに生きる

款冬華


寒い。


東京でこんなに寒さを感じるのだから、雪国の人は大変だろうな。。


……以前、冬が寒くてほんとによかった〜という歌詞で始まる、BUMP OF CHICKENの''スノースマイル''という曲を好きなんだよね、と話した人に『雪国の冬の寒さなめんな!』と、その人が冬が寒い土地出身だったことで、怒られたことがある。

まあ、歌詞にそんな怒らなくても(笑)と思ったけど、その時はじめて、寒い土地で暮らす人々の大変さに想いを馳せることができた。

それからは、寒い土地で暮らしたことがある人にこの話をするのはやめようと、固く心に誓った。



刻一刻と移り変わる心模様に、なんとなく落ち着かない。

なんでだろう?と、この状態に意識を向ける。そして、気づく。

今に囚われてるからだ。

今を生きることが大事だとわかったいま、この落ち着かなさをも、今を生きている証と言える。

いい気分の時ばかりではいられない。自然に身を任せるということは、どんなときも受け入れるということだ。そして、その流れの中で、またいい気分になる時がくる。嬉しくて走り出したくてたまらない気持ちになった時に動く。


感覚発信は基本変わらない。

だから、自分がこれまで発信してきたことがどれだけ筋が通ってるかもわからないし、知覚優位の人が見たら、わたしの言ってることは、辻褄も合わなければ矛盾だらけなのかな?と思う。そして、その人たちからは、信用に値しない人だとレッテル貼られたりするのかなぁ〜なんてことも思う。


ただ、ひとつだけ言えるのは、その時々を真剣に生きてる自分が、その時感じたことや気づいたことを伝えたくて文章にしていたということ。


言ってることがコロコロ変わる、というような表現があるが、それについて考えてみた。


言ってることがコロコロ変わるのは、変化しているからだと思う。

今日の自分と明日の自分がまったく同じということは無いと思うからだ。

わたしは、生きている間、気づきの波が止むことはないと考えているため、ひとつ新しい気づきを得た時に、それに気づく前の自分と後の自分では、発言が変わるのも当然だと思う。わたしの場合だが、一日にひとつは、何か大事な気づきを得ている。


気づきを得ている時、必ずそこには他者の存在がある。誰かの存在なくして、自分を知ることは不可能だと思う。

お得意の言葉を使って言うなら、闇がなくては光も存在できない。そういうことだろう。

(多分ちがう…笑)

何が言いたかったのか、分からなくなってしまった。


わたしたちは、ひとりで寂しいと感じている時も、真にひとりということは有り得ないと思う。その時、同じ想いを共有しているであろう他者の存在に意識を向ければ、ほんの少しでも心があったかくなるのではないか。


わたしは、そのような考えで、よく寂しさを乗り切っている。


自分をひとりにしない。

世界から孤立させない。


その責任だけは自分にある。


こういうところがわたしの強さなのだろう。


けれど、ふと思う。

このさみしさを本気で感じ切ることを自分に許してきただろうか?

さみしいその瞬間、誰かにその気持ちを伝えることを自分に許してきただろうか?

わたしがさみしがっていたら何も始まらない!と、強がっては、今思えば、信じられない状況にさえ、嫌だと言うことを選ばず、すべてを受け入れて生きていた過去を思い出す。あの頃の自分が不憫で可哀想でならない。


今わたしは、その事実に気づけた。

それだけで癒される心がある。

気づけば終わる。

そして、また立ち上がれる。


**



どうしてみんなに優しくできたように

自分に優しくなれなかったんだろう。


どうしてこんなにみんなを愛せたのに、

自分に愛をあげれなかったんだろう。


長い間ずっとごめんね。


痛い思いばかりさせて、

本当にごめんね。



**


タイトルの款冬華は、ふきのはなさくと読むらしく、二十四節気のひとつで、今の時期(1/20~1/24頃)のこと。

款冬というのはフキの漢名。雪の中にふきのとうが芽生える時季とのこと。寒さはいまピークを迎えているが、ゆっくりと近づきつつある春を感じさせる時らしい。


これを知ったことで、''今の自分はもしかしたら、芽を出す前のふきのとうと似ているのかもしれない''と、じんわりといい気分になった。




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流れてく