シュリ日和

まいにちに生きる

愛の活路



飛行機が飛行を続ける中、厚い雲のなかからあるとき急に快晴の青に抜ける瞬間がある。


何が言いたいかというと、今この瞬間の気分がそれだということ。


ひとまず、新しい生き方のアイディアのようなものを記事として外に出せたので、あとは日常をひたすら気分良く過ごしたいと思っている。


さっき急にきた気づき。

''親が子に抱く無償の愛''ってよく聞いてきたけど、もしかしたら始まりは、''子が親に対して抱く無償の愛''なんじゃないだろうか?


生まれてきた子どもはどんな親でも愛する。赤ちゃんは愛そのものの存在だ。だけど、多くの親はその愛そのものから向けられた無償の愛をそのまま受け取るということができずに、一方的に与えなきゃいけない、と思い込んでいることにより、愛のバランスは崩れ、循環せず、親が何かしらの自分の苦しみを持っている場合、子を愛する心の余裕が無い状態に自分自身が苛立ち、子育てにとって唯一必要不可欠な愛を渡す、受け取ることが機能せずに迷宮に入る。子どもは最初から与えてもらうことを一方的に望んでいるわけではない。ただ、渡したい優しさを受け取って欲しい、と望んでいるのだと思う。けれど、愛を拒絶している親の状態を敏感に察知した子どもは、愛を渡すことができなくなる。

愛することと愛されることが同義なのは、愛することは、愛されていることを実感できるたったひとつの魔法だからだ。

『お母さん大好き。』と言って子が親に愛を渡す。それを『ありがとう。』と言って、親が受け取るそれだけのこと。それだけで愛は循環する。


この経験は何も、血が繋がった親子でなければいけないという訳ではない。誰でもいい。ただ、子どもが育つ過程で、この愛の循環がなされるかどうかが、子どもがその後の人生を生き抜くための原動力を自然に得られるか否かの鍵になると思う。


愛を受け取ってもらえなかった子どもは、その悲しみ(傷)が、今度は成長していく過程で自らを蝕む。素直に愛するということを見失う。そして、そのことに気づき、変えていく意志を持たない限り、愛を受け取れない親になってしまうというループを生み出す。


なんかそんな気づき。


よく、虐待されて育った子どもが、同じことを子どもにしてしまうんじゃないか?ということを恐れて親になることができない。というような話を聞くが、その気持ちは虐待された人が抱く気持ちとして至極真っ当だと思いながらも、ここで大事なのは、じゃあ、自分はどうしたいか?それだけだと思う。

自分は虐待などしたくない!自分は子どもを愛したい!自分は優しい親になりたい!

もしそれが本心なら、そうすればいいだけだ。

できるかできないか、の心配をしても意味は無い。やるかやらないか、の決意をするだけ。三浦友和が百恵さんと結婚する時に『自分は浮気はしない。』と決めて貫いてることと同じだ。理性のある人間の意志力で成せないことはない。わたしはそう思う。


わたしたちには、圧倒的にコミュニケーションが足りていないのではないか?


一方通行なコミュニケーションが氾濫しているなか、ひとりひとりが自分の傷をさらけ出して問題を乗り越えていく経験や体験ができる場や、繋がりが、限りなく少ないように思う。誰かの教えを実践するにも、結局やるのはひとりだ。見守ってくれる人がいない。そんな不安な心の状態で光を見出すことは並大抵なことでは無いはず。ひとりでもやれる人はすごいと思うけど、一部の人だけがやれたって意味無いじゃん!と思う。だって、わたしをはじめ、ほとんどの人がその他大勢なんだから。みんなで活路を見出したい。健全に発揮できなかった愛の底力で新しい道を開拓したい。


やり方がわからないから、とにかく今はこうなったらいいな、を書いて書いて書きまくっていこうと思う。想像をカタチにするのはそこから先の話。


わたしは天秤座だけど、どうも牡羊座っぽさがある。占星術に詳しい人しか分からないかもしれないけど、龍頭図では太陽と水星と天王星牡羊座だからかもしれない。表向き風を装っているけど、実は火の塊かもしれない。


熱い自分をわたしは嫌いではない。




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