シュリ日和

まいにちに生きる

冬至




さて、街はいよいよクリスマスムード一色に。

最近ブログから遠ざかり(というか、心にその存在を感じながらもあえて距離を置いていた)淡々と日々を過ごすことに身を投じていた。

伝えたいことも雪のように勝手に降り積もっては、残す行為を起こさなかったが故に、心の中の見えない場所に無自覚に積もったまま。それも、春が来る頃には自然と雪解けの如く、消えていくのだろう。小さい頃からずっとそんなことを繰り返してきたのかもしれない。


日々思うことが沢山ある。

最近思ったのは、例えどんなに好きな人でも、その人の思想のすべてに共感はできなくていいということ。好きか嫌いか、白か黒かのようにはっきり割り切れないような気持ちの方が寧ろ自然だ。好きな人がどんなことを思おうと、自由だし、わたしがそれをどう思うかも自由だ。何故それを好ましく思わないのか?自分でもよく分からない感覚的な反応を、まずは自分自身が受け入れられたらな、と思う。そして、最も大事なのは、その人自身を好きだと感じた感覚の方だということ。安易に判断することをやめれば、大抵の人のどこか一部分を自分の内に見ることができると思う。それができれば視野が広がる。好きな人の輪郭もはっきりしてくる。ここ最近、そのようなことを考えていた。


元々毎年冬至は大事な節目の時ではあるが、今年の冬至は特別だと、前々からスピ界隈の人たちは口を揃えて言っていた。わたしも12月に入ってからずっとその余波を感じとっていたし、どんどん上昇する運気の渦のようなエネルギーの影響で、絶好調の毎日だったが、今日はもう特に何か特別な想いは湧いてこなかった。ただ、物凄く眠かっただけ。今年(こどもの頃から)お世話になりまくったお不動さんで最後の浄化をし、清めた。出雲大社の塩で盛り塩をつくり、玄関に置く。これは強力な結界になりそう。あとは、毎日外出から帰って行う白檀のお香焚きや、塩やお酒を入れたお風呂に入り清めることを続けている。

生きていると、負のエネルギーを無意識にうけて、知らず知らずの内に身も心も穢れてくる。生霊とは、生きてる人間が出してるネガティブな波動だと思う。恐れや不安は特に顕著に現れる。たとえば、親がこどもに対して、過剰に恐れや不安を元にしたネガティブな言葉をかけ続けると、そのこどもは生気を失う。やる気が奪われ、イキイキとした行動ができなくなる。これはもろに親の生霊を食らってる状態だ。親は心配という、親という立場で使える職権を乱用して、こどもを支配下に置いている。何故このようなことが起きるかを考察すると、その親自体が何かの支配の下に生きているからだと思う。支配は支配を呼ぶ。問題は当人に自覚がないこと。もっと言えば、その人が自分の親からされてきたことをそのままやり続けている可能性が高い。つまり、その家系の誰かがどこかで気づき、行動を変えない限り、連鎖が止まることは無い。ガンジーが言ったとされる、非暴力と不服従の凄味を想う。

だから、親の言うことを聞かないこどもは勇者だ。学校で先生に楯突くこどもも戦士だ。自分の頭で考えられた時点で、支配から一歩脱することができる可能性が出てくる。しかも、そこに関わるすべての人へと影響を与えることもできる。

賢明なこどもたちは、愚かなおとなに合わせてあげる優しさをもっていて、なかなか支配から脱するところまで行くことが難しい。だから、本心との間で葛藤が生まれる。葛藤を抱えたまま服従してしまう。愚かな親はそんなこどもの繊細さに気づきもしない。問題はいつだって、支配世界に生まれ育ってきたおとな側にある。問題を掘り下げず、放置し続け、楽し続けてきたツケは、大事なこどもに回っているということに、どうしたら気づけるだろうか。こどもたちが本当に求めているものが何か?ということの答えは、自分のなかにある筈なのだ。自分がこどもの頃に感じた気持ち(インナーチャイルドってやつですね)を、胸の奥に押し込めた葛藤を、勇気を出して直視することから癒しが起こる。おとなが変わるか、こどもが変わるか。いづれにしても、変化は自分から起こすしかない。


あれ?なんでこんな話に発展したんだろ・・・

ま、いっか。笑


しかも、この記事は冬至(22日)に上げる予定で下書き保存していたものに加筆している。今日は25日。出だしのクリスマスムードも何も、クリスマス当日だし!めちゃくちゃである。ひとりで混沌としている。昨年はとてもクリスマスしてたなぁ〜と、遠い目で過ぎし日を想う。全部冬至のせいにして、2021年残りの日々を平和に、いや、荒くれて過ごしたい。






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ドライフルーツたっぷり