シュリ日和

まいにちに生きる

行動




今日から10月。

今年の夏が''運命の夏''だったのならば、今年の秋は''勝負の秋''だ。わたしは過去生において、よっぽど戦いに明け暮れてたんだろうな。結局、勝負ごとから逃れられない。けれど、命を懸けた戦いはもうしない。ここからは、命を活かして、自分も人も輝かせるための闘いに臨みたい。


動画撮影が楽しい。毎日に張り合いというものが生まれた。

……わたしは昔から、仕事の顔やプライベートの顔、その他様々なシチュエーションに応じた顔の使い分けというものができずに、日々生きづらさを感じながら生きてきた。社交辞令や、体裁、体面、、外の世界に順応して生きられていたら、どんなに楽だったろうか。他人のエネルギーには敏感で、受け取るだけ受け取って、人と人の潤滑油のような役割を無意識にこなしていた時もある。無意識に引き受けた役割は、その場しのぎのエネルギーの無駄遣いでしかなく、自分の為にはひとつもならない労力を使っては、疲弊することも少なくなかった。

しかし、それら全ての責任はもちろん自分にある。そのような現実を引き寄せていた原因は、自分が幻想世界を生きる選択を、無意識にしてしまっていたからに他ならない。

今日撮った動画の中で話したことをここにも載せたい。

思考について。思考にはいい思考と悪い思考がある。(いいものと悪いものは概念すべてにあると考えている。)幻想世界を生きていた幻想の自分の思考は、恐怖で人間を支配する目的を元にコントロールされていた世界のなかでは、無意識でいる以上、悪い思考しか働かず、常に他者との比較や、死への恐れでいっぱいであった。嫌われることへの恐れ。同調圧力。いつの間にか日本に蔓延った村八分文化のなかでは、いつも何かに怯えながら人目から逃げることで、本来の自分からも遠ざかった。

本来の自分がいる場所は、自然と近く、安心して人を信頼し、心から笑い合え、愛に満ちている。その光意識が自分のなかにあることを知っているからこそ、目の前の現実を生き抜くには、その意識は邪魔になった。葛藤から逃れるために、光は心の奥に封印したのだ。


って、何の話ですか?って思われたかな。わたしは、わたしの経験を通して、闇の集合無意識について語っているつもりなのである。動画というものを撮ってみると、文章だけで伝えたいことを伝えることの難しさを改めて痛感する。人間は五感によって情報を得る中で、視覚情報の占める割合が8割とも言われているだけあって、目で見えるものが一番早いし分かりやすい。分かりやすい分、信じやすくもあり、騙されやすくもなる。光意識を目覚めさせていない限り、簡単に情報操作により、コントロールされる事態に陥る。

思考をすべて自分のために使えるようにならなければ!!!

思考を支配されている以上、創造はできない。自分が本当に望む未来が現実化しない。それはつまり、本当の自分の命というものが立ち上がらないということだ。だから、すべてを疑い、すべてを愛す。


闇のコンフォートゾーンから抜け出して、光のコンフォートゾーンに戻る。安心の場所はここにある。ずっと穢されることのないように大切に大切に守られている。だから、怖いことなんてない。怖いことなんて、全部幻だ。失うものなんて無い。わたしが生きている今にすべてがある。在りつづけている。






f:id:like_nanohana:20211001194433j:plain


季節外れの