シュリ日和

まいにちに生きる

彼岸明け




21日は春分の日で、お彼岸の中日でもあった。あの、'暑さ寒さも彼岸まで'とは、春分の日秋分の日周辺を指していたことに今更ながら気づいた。今年に入ってから、ご先祖さまや家系というものに意識的になったこともあり、こまめに実家に行っては、仏壇を掃除してみたり、お供え物をしてみたり、なんかそんなことをよくしている。

私の母は、仏壇横に自分の好きな生花を飾ることにはいつも余念がない代わりに、お供え物には一切関心がなく、先日気づいたのだが、驚いたことに、申し訳程度に置いていた菊の花の形をした砂糖でできた干菓子の賞味期限が、なんと!10年前のものだった。10年前ということは、その頃まだ父は生きているではないか。祖母はすでに亡くなっていたから、お供え物があっても不思議はないが、それにしたって、父が亡くなった時に古いものを処分して、新しいものを供えなかったのだろうか、と思うと、なんで?とかって気持ちを余裕で超えて、笑えてくる。信じられないくらい自分の興味関心外のものに対する母の無頓着ぶりには、笑うしかないだろう。母強し。まあ、こういう話って、別にみんな口外してないってだけで、各家庭にいくつかはあるのだろう。

お供え物事件に気づいた日に、珍しくみかんがひとつ仏壇に乗っていた。母に聞くと、来客者が置いていってくれたものらしい。何気なく手に取ってみる。すると、そのみかんは驚いたことにピンポン玉くらいの重さしか感じられなかった。つまり、中身の水分がスッカラカンだったのだ。これは多分、珍しくきたお供え物を父か祖母が一瞬で食べたことの証に思えた。そのみかんを見つめながら、これからは私がたまにお供え物を持ってこよう、と思わざるを得ないのだった…。

なんて話が、久しぶりのブログのネタにできて嬉しい。


それにしても、ずっと体調が優れなかった。昼寝をしすぎてしまった日の夜、布団に入っても寝れそうになかったため、アマプラで何か映画を、、と思い選んだのが、スタンリー・キューブリック監督の''2001年宇宙の旅''だった。超有名な作品。評価は真っ二つ。好きか、わけわかんないかの二つに一つ。私は昔観た気でいたが、観ていなかった。新鮮な気持ちで鑑賞。そして、この作品が生まれた1969年に想いを馳せる。『…ああ、ここから始まっていたんだな。』ただただそう思わされた。ここから、いや、もっと前にも同種の作品はあったのかもしれない。とにかく、この作品は、当時わけわかんなかった人は、いま観てもわけわかんないんじゃないだろうか。当時意味がわからなくとも、何となく好きだと感じた人は、今はもう、『そういうことか。』と、キューブリックが作品に込めたメッセージの意味もよくわかるんじゃないだろうか。更に、いま初めて観る人の中でも、好きかわけわかんないか、どっちかだろうな、そんな風に感じた。時間とは幻想で、無数に存在するパラレルの一点にこの作品は在り続けているだけなんだろう。

私は、この作品の音楽と映像がピタリとハマっている感じが好きだった。何かそこに、頭のなかがスっとする感覚を憶えた。それなのに、映画を観た以降、頭痛が悪化し苦しんでいる。キューブリックにやられたのか、はたまた、彼岸の最中、地上に遊びにきてる霊たちにやられたのかは定かではないが、結構しんどい。ネガティブの応酬。回避方法は、長年の研究により熟知しているものの、負の想念が思った以上に強力なようで、苦しい。久しぶりに死にたい気持ちにまでなった。もちろん、そうは言っても、自分が自殺しないことはわかっている。何故なら、この死にたさは私のモノではないことがわかっているからだ。

もう無理ってとこまで堕ちに堕ちて、やっと復活したと感じられたと思ったら、彼岸明けだった。やはり理由はちゃんとあったのだ。


そして今日、また新しい夢が生まれた。

やっぱり私のいいところは、夢見がちのロマンチストなところだ。自分の夢を叶えてあげられるのは自分だけ。自分がこれまでの人生のなかで経験したことは、きっとそこから得られる学びが、夢を叶えるために必要だったからなんだ。ひとりでは存在する意味すら無い。出会った人たち全員が失ったと思ったその人の欠片を拾い集めて、ひとつに束ねたい。


そう、私は私のヒーローになりたい。





f:id:like_nanohana:20220324160056j:plain


原初の色彩