さっきネットで、原美術館解体のニュースを目にしたことで、ずっと下書きに保存してた芸術に関する記事を上げてみることにした。
わたしは、10代の頃から、美術館や美術展や写真展に行くのが好きだった。
特に印象に残っているのは、ロバート・キャパや、エドゥアール・ブーバや、荒木経惟の写真展
絵画は、ゴッホやピカソやミュシャやクリムト、モネ、バスキア、アンドリュー・ワイエス、フリーダ・カーロ、片岡珠子、山下清も印象深い。
いちばん好きな画家は、パウル・クレー。クレーの絵をわたしは永遠に愛し続けると思う。クレーの絵とだけ共鳴できる神聖で崇高な静寂の部屋がわたしの内にある。
ルーシーリーの陶器や、円空の仏様、棟方志功の版画、朝倉文夫の彫刻も好きだ。
友人Mが連れて行ってくれた、原美術館と朝倉彫塑感はとても好きで、何度も足を運んだ。わたしは静かな場所が好きなんだと思う。
調べたら、芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が、相互に作用し合うことなどで、精神的、感覚的な変動を得ようとする活動とある。
文芸、美術、音楽、演劇・映画などを指すらしい。
あくまでわたしの意見だが、上記芸術とは、の意味を、少しだけ違う角度から捉えるのであれば、わたしたち人間のひとりひとりが、自分という存在を表現しながら生きる中で、お互いに関わり合うこと(作品を通してなども含めて)で、精神的、感覚的な変動を得ようとしているのであれば、わたしたちひとりひとりは、すべて芸術活動をしているということになる。
どんな仕事をしているとか、肩書き的な要素のひとつもそこには必要ない。
ただ、ひとりひとりが、自分を表現して生きるだけでいい。それだけで芸術活動をしている。つまり、わたしたちは皆、芸術家だ。
自分に目覚めた人が表現する、唯一無二の生き様こそが芸術だと思う。
もしも人目につかずとも、ひっそりと自分の世界を表現しつづけることは、神様に捧げる祈りのように、純粋な美しさを帯びるのではないだろうか。
わたしが約二年前にブログを始めた時、ただやりたいからやる。とは思えなかった。人目に晒す恐怖(見てもらえないかもしれない恐怖)と共に始めた。わたしの頭の中では、やることと、見てもらうことは何故かセットになっていて、やりたいからやる。それだけじゃダメなんじゃないだろうか?そのような思いがついて回った。誰かのためにならなければ意味が無いとか、やるからには人に見てもらいたいとか、そんなおまけ要素にばかり気を取られていた気がする。
当初、丸ひと月以上、アクセス解析には目を通すことはなかった。理由は、誰にも見られないものを続ける意味は無いと思う気持ちが自分にあることがわかっていたため、もし、続けることに慣れる前に誰にも見られていない事実を知ってしまったら、ショックでやめてしまうことが想定できたからだ。だから、続けることに慣れてきて、ただ文章を書く楽しさが諸々を上回った頃に、はじめてアクセス解析というものに目を通したら、毎日数人の人たちが見てくれていたことを知り、その時は続けたことのご褒美のような気がして、ものすごく嬉しかった。今も、ひとりでも見てくれた人がいた日の喜びは尊い。
二年という歳月が経つ今はもう、ただやりたいからやってます!と爽やかに言いきれる。見てくれた人には『ありがとうございます。』と、心のなかで手を合わせ、気持ちを伝えている。(伝わっていますでしょうか〜)
ブログを見てくれた人と、わたしの想いとが、相互作用し合い、精神的、感覚的変動を得ようとするような動きが起きていることを願いたい。
このブログは、わたしなりの生命の表現だ。芸術に属してもいいと自分では思っている。
わたしが今ここにいることは、それくらい奇跡の連続で成り立っているのだから、なんでもないようなことの全部が、実は凄いことなのかもしれない。どんなに小っぽけなことだと思うようなことでも、やってみる価値はある。好きなら続けてみたらいい。
自分のために、芸術作品を作りあげる喜びは、いつかどこかで、誰かの喜びと繋がる日がくるかもしれない。芸術活動として日の目を見る日がくるのかもしれない。
そんな日を夢見て、なんでもないような一日も、慎ましく幸せを感じて過ごしたい。
そんなことを、思った。
矢車菊という色