シュリ日和

まいにちに生きる

それから

昨日の卒業遠足は、わたしのこれまでの人生史上いちばん楽しい遠足だった。


あんなにもどの瞬間もしあわせを感じながら過ごせた時間は、大袈裟ではなく神様からのご褒美だったんだと思う。


楽しさや嬉しさのなかには、ちゃんと、切なさや物悲しさや郷愁の想いも、色々と含まれていて、それら全部が刹那の煌めきを持って胸に迫った。

だから、大笑いしながらも、心のなかでは、大泣きもしていたんだと思う。


自分なりに、これまでの人生をその時々の本気で生きてきたことの証な気がした。



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4年前の10月に父は他界した。

突然のことだったのだが、亡くなる数日前、偶然にもわたしは父が入院していた病院の方角に面した隅田川のほとりで、ひとりの時間を過ごしていた。


病院にお見舞いには行かなかった。

弱っている父と対面する勇気があの頃のわたしにはなかったからだ。

ありがとうの一言も伝えられず、今生の別れを迎えたことに、ちゃんと傷ついた。

けれど、お葬式も終わり、実家の仏壇に飾られた写真の父と対面したときに、はじめて、目を合わせて心から『ありがとう』と伝えられた。

わたしはその時、父にずっと愛されていたことを実感した。


この話を、当時働いていた店の料理長(朱里日記のなかに出てくるAさん)に話したとき、彼は何も言わずにわたしの話を黙って聞いてくれた。そして、そのことについて、自分の思いなども何も語らなかった。

Aさんは、そういう人だった。


今日の夕方、浅草に用があり、慌てて家を飛び出した。

用が済み、バスを待っていると、友人から、池に映る月明かりの道の写真と、森で見かけたリスの写真が送られてきて、秋の深まりを感じる。


ふと、隅田川が見たくなり、途中下車して川沿いまで歩く。

そこで、やっと思い出したのだ。

父の命日が近いことを。


魂の繋がりは目には見えない。


けれど先月、友人に誘われ行った上野の純喫茶でお茶をしたとき、上野を拠点に働いていた父が、もしかしたらこの店に立ち寄ったことがあったのではないか?

そんなことを肌で感じた。

なぜなら、小さい頃、喫茶店に連れて行ってもらったことが、わたしの唯一の父との思い出だったからだ。

なんでもない日だったが、その日は、父の供養のつもりで、よく土産に買ってきてくれた、うさぎやの最中も買って帰った。


生きていた間に、心を通わせ合うことは難しかったが、こんな不思議な偶然が重なり、親子の縁というものに今更想いを馳せるときがある。

死に別れてからでも遅くはないのだと思う。

大事なことにはかならず気づく時がくる。



明日から10月だ。

人生最高の秋の本番。



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はっぴー