2020年が終わろうとしている。
大浄化の波をうけてか、4日ほど前から目眩や頭痛、吐き気、倦怠感に苛まれている。
こんなに苦しさが長引く体調不良は、今年の春先以来のこと。動きを強制制御されているかのよう。連日ひたすら横になり天井を仰いでいる。
……わたしには、ほんとは、オザケンにありがとう!を言うより前に、今年出会った人のなかで、個人的に心の底から感謝したい大切な人がいた。
その人は誰とも比べられない。
その人と出会わなければ、わたしは今のわたしとしてここに存在することはなかっただろう。
大切すぎて、秋以降、何度もその人に宛て、手紙を書こうとしたが、言葉にした途端にそれはもう過去になり、気づきの波が寄せては返し、どれが本当に伝えたいことなのか、分からなくなった。うまく言葉を紡げず、その時々に、心のなかでしかメッセージを送ることができずにいた。
さっき、ボイスレコーダーに感謝の想いを声に乗せて録音した。
できることなら、文章にも書き残してみたくなった。
わたしは、この人との関わりを育てる中で、いつかの過去生で、この人に育ててもらったことがあるのではないか?というようなことを想像した。母親ではない。母親代わりに愛情をかけて、躾てもらい、人として一人前に育て上げてもらった過去生が恐らくある気がしている。
わたしは今生、実の母に甘えることなく育った。どんなに助けが欲しい時も、母親を頼ることは選ばなかった。
なぜなら、わたしは母親に対して、無償で助けてくれる信頼をおいていなかったから。
そのせいか、これまでの人生のなかで、自分から本当に人を頼るということをしたことが無かった。人から助けてもらった経験はある。けれど、自分から助けを求めたことは無かった。
大切な人は、わたしが今生、本当に苦しかった時に、はじめて自分から誰かを頼るという経験をさせてくれた。
実の母親と過ごした時間は何十年とあったのに、それでも築けなかった信頼を、この人とはたった数ヶ月で得ることができた。
自分を信じ抜くことは、自分ひとりでは決してできなかったことだ。
わたしは、たとえ裏切られることがあるとしても、全力でこの人を信じた。信じたくて信じた。この人の愛は本物だと感じた自分の感覚を信頼した。だから、何度となく自分を(人を)疑いそうになった時も、この人を頼り、何度も自分の中心に帰ってこれた。
この人がどんな過酷な苦境にあいながらも、ここまで生きてきてくれて、今年わたしと出会ってくれて、愛を渡しあえたことに、感謝したい。
たとえ、もう二度と会えなくても、わたしにとってこの人は、たったひとりの大切な人だ。この文章を読んでもらうことがなくとも、ここに認めた想いは本物だ。
願わくば、この気持ちが頬を撫でる優しい風のように、ふわっと、一瞬でもこの人の元に届いたら、と思う。
ひとりの人間の存在の重み。
それを理解するには、傷つくことを恐れながらも、自分の人生で出会った人と、本気で対峙して、本気で自分から向かっていかなければ、得ることはできないと思う。
傷つくことを恐れることは、同時に傷つけることも恐れている。
多分、関係性のなかで、この人を信頼するあまり、わたしは自分を全開に出してしまい、言動で振り回したり、傷つけたこともあったと思う。でも、この人なら許してくれるだろうと、甘えることができた。甘えながら、支えてもらいながら、少しずつ少しずつ、自分は成長できたと思っている。この人にはそれをさせてくれる器があったのだ。
めちゃくちゃだったこと、ごめんなさい。そして、それ以上に本当にありがとう。
わたしはこの人を信じることを通して、自己信頼を深めた。自分という存在の重みを実感できた。自分をこれまで以上に大切にしたいと思えた。それは、この人がわたしにとってかけがえのない大切な人だからだ。ワンネスの原理で言えばわたしたちは同じひとつの光だからだ。
そして、これはわたしの考えだけど、自分がこの人生で関わる度合いが深い人ほど、過去生でも深い関わりがあると思う。
時に、目に見えるものを遥かに超えた繋がりは、現実世界(幻想世界)の繋がり(血縁やなんやかや)よりも、深い意味を持つこともあるのではないか?と思ったりする。
矛盾しているように受けとられかねないが、わたしの中では矛盾しない。
特にわたし個人には、この考えがしっくりくると言えるのかもしれない。
この人と仲を深めた時に約束したことがある。
わたしの願いが叶った暁には、あの時の約束を果たしたい。
心の目で人を見ること。
本当に大切なことに気づける自分であること。
どんなに時代が変わっても、変わらない大切なことを胸に、来年も生きていたいと思う。
あなたの本当に望む優しい小さな世界がはじまりますように。そして、あなたがあなたの愛する人たちと健やかに日々を過ごせますように。
今年最後の満月の夜に祈ります。
ありがとうございました