シュリ日和

まいにちに生きる

受け取る




11月は全日ラッキーデイ☆なんて言って早々、体調不良のまま3日が経った。しんどい。頑張れない。疲れた。もうわたしは、疲れたのだと思う。自分で思うよりずっと、頑張り屋さんだったのかもしれない。10月は心労が続く日が多く、その反動がきたとも言える気がする。

大きな紙に、今の思いの丈をぶつけるかのように、書きなぐった。少しだけスッキリする。健康でいられない時には、元気な時に描く夢なんてどこかにすっ飛んでしまって、出てきた今のいちばんの願いは、'' 歯の痛みが完璧になくなって、食べたいものを食べたい速度でw美味しく食べれるようになる!この先、一生!''だった。人間なんて(わたしなんて)所詮そんなもんだともわかって、いい意味で肩の力が抜けた。


元氣があればなんでもできる!猪木の言う通りだ。元氣さえあれば、元氣の無駄遣いをする自由だってある。なんて素晴らしいのだろう。…だけど、ここにフォーカスできるのも、ある意味わたしには他に日常的に抱く悩みという悩みが無いからとも言える。今、明日を生きる希望の一欠片すら失って、死にたいと考えている人がいることを想像すると、自分の苦しみのレベルなんて底辺だ。大体、自分がしんどいと感じてる時ほど、針の穴ほどの小さな穴に意識が向いてるだけで、もっと引きで見たら全然大したことなく、十分幸せだったりする。小さなことに捕らわれているだけ。それを理解した上でもなお、しんどいものはしんどいのだ。エゴって超こどもだな、と思う。情けないやら恥ずかしいやら、みっともないなぁーと思う。だけど、それが自分だ。そんなちっぽけな自分という存在を丸ごと受けとめるしかないのだ。しんどいものを我慢して平気なフリができるようになることが''おとなになる''ということではなく、そのまんまを直視できるようになることが''おとなになる''ことだと思う。


今日の氣づき。

わたしはこれまで、与えることは受け取ることだと考えてきた。それも嘘では無いと思うが、先に与えるから受け取る、という図式しか頭になかったことは、受け取ることの幅(可動域)を狭めていたことに氣づいた。受け取ることを前提に堂々と行動してもいいということに決めれば、与えすぎてしまうことがなくなり、バランスが整う。わたしは与えることは得意だが、受け取ることは苦手だったと思う。心のどこかで、愛されたいと願うことは、悪いことだと決めつけていなかっただろうか。愛することは愛されること。その考えは変わらない。だけど、もっとその上を望んでも悪くなんかなかったんじゃないか?必ずしも、先に与えなきゃいけない、先に愛さなきゃいけない、なんてルールは無かったんじゃないか?『よく感じてごらん。』頭の固い自分に言って聞かせた。



明日は今日より元氣になっていますよーに。

この不完全な世界に愛を込めて。





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