シュリ日和

まいにちに生きる

春キャベツ




ここ半年程の間、一体どこへ行ってしまったの?というくらい食欲が減退していた。理由は特に見当たらず、とにかく一日一食、間食もほぼ無しで事足りる身体になったことで、日常の中で食べることの楽しみが激減してしまい、そのことを私はとても寂しく感じていた。食べたい意欲が湧き上がらなくなったことで、食べることとは、生きる喜びそのものだったのだな、ということが痛いほどよくわかった。

欲とは、それほど人間を生きる上で大切な要素のひとつなのだと思う。

昨年、余りあるひとり時間を利用し、興味のある学問を独学で学んでいた時期がある。言葉にしたら大袈裟だけど、古代の哲学者の思想についてなど。

エスアガペーと、プラトンのエロスという、対の愛の概念。陰陽の関係にある愛についてを。(そう私が思っているという意味です)

簡単に説明すると、イエスが説いたアガペーとは、天にいる神から生きとし生きるすべての存在へと注がれる無償の愛のことであり、矢印は天から地へと向かう。対して、プラトンのエロスとは、人間界から天の理想の世界である※イデア(イデアとは、超理想主義のプラトンが生み出した概念=空の上にはイデア界が存在し、そこにはすべてのものが完全な状態として存在していると考えた。)に向かう愛のこと。矢印は地から天へと向かう。

エスアガペーは絶対的な存在である神が無償で与える愛であり、プラトンのエロスは下位の存在である人間が完璧な理想の世界であるイデアに近づきたいという欲望に基づく愛である。無償の愛と欲望に基づく愛。それらは、正に愛の両面であり、神が生み出した人間とは、神聖な存在(神の一部)でもあり、同時に俗物的な存在でもあるという動かし難い証拠であると言えよう。イエスプラトンも人間だった。イエスは神の愛を教え広めた人で、プラトンは、人間そのものの抱く欲望という名の愛を説いた人だったのではないか?

どちらも同じ人間だ。

エスマグダラのマリアの前ではひとりの人間だったと私は考えている。イエスは神から与えられた仕事として、神の愛を教え広める活動をしていたのであろう。

……って、いきなりすみません。笑

よく、無償の愛を学びに人は生まれてきた、というような話を聞いたことはありませんか?私は聞いたことがあります。そして、無償の愛を学び得るために日々成長していくことこそが、良い人間になることだと信じて疑っていませんでした。

つまり、過去の私は、イエスアガペーだけを見ていたということです。しかし、それでは愛の片面しか認めないということになってしまいます。プラトンのエロスとは、下位の存在である人間の本能でもあるのに、そこは見ないように、避けて生きてきました。なぜなら、幻想世界では、本来人間にとって必要不可欠なエロスという愛の側面(真理としての美しい性の有り様)を、愛と切り離した性(エロ)として売ってきたことに、自分なりに抵抗してきたとも言えるのです。私の勘は間違っていなかったと同時に、本能という欲を封印してきてもいたのです。

この話はとてもデリケートで、簡単にブログに書いていいものか、とも思いましたが、私と同じ悩みを抱えている人は意外と多いのではないか?と考え、書いてみました。

このことの理解に至り、切に訴えたいことは、

私たちは本当に心から愛する人と、愛し愛されて生きる自由を人生に取り戻さなければならない!ということです。

幻想世界が創り出した幻想の概念の外に飛び出し、今ではその存在が神様の域に達したイエスプラトンのような先人たちの遺してくれた遺産を頼りに、人間になるとはどういうことかをいま一度真剣に考えてみたいと思います。

言うなれば、愛の陽の側面としてのアガペーと、愛の陰の側面としてのエロスを統合し、自分という存在をすべて赦し受け入れること。それこそが、愛であることを私は信じます。


タイトルが春キャベツだったことを、たった今思い出しました。笑

今日ブログを書きたいと思ったのは、ここ数日の間に食欲が戻ってきて、春キャベツを生でむしゃむしゃ美味しく食べてる話をしたかったのでした。


最後までお読みいただき、ありがとうございます!!!





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陰も陽も光