シュリ日和

まいにちに生きる

勇気

 

 

 

嬉しいことが起きた。

YouTubeの登録者数が6人になったのだ。やったー!一気に3人増えるなんて、やっぱり太郎効果かもしれない。プラス、いいねが12ももらえるなんて、、。これはもう奇跡じゃないか。

間違っても自分の力なんて勘違いしてはいけない。私は色んな存在から力を分けてもらい、行動しているのだ。自分がやりたいと思って動いたことすら、神の采配の一環であることを念頭においておかなければ、少しずつ違う方にずれていってしまう。

私がやりたいと思ってやることは、私の個性を活かして、あなたと私は同じもの(ワンネス)であることを伝えるためだと受けとめている。

この国が壊されてから現代に至るまでに浸透してしまった概念のすべては、私個人の考えで言うと、幻想(という名のゲーム)である。そのゲームは私が創り出したものでは無い。自分が面白いと思って創ったわけでもないゲームに生まれてすぐから強制参加させられてきた。その世界からようやく脱出した(まずは意識の上で)のが今で、まだ日が浅い。幻想が幻想を叩き、殺したり殺されたりしていく腐りきった社会に一石投じたい。

幻想の生みだした、何者であるか?という肩書き上での表現では、個人の本当の声を伝えることは難しいのではないか、ずっとそう考えてきた。自分がこれまでしてきた経験のなかでも、何者かになったかのように振る舞い、演じるように働け!と、無言の圧力を受けたことがあり、その度にどうしても、私は私でしかいられなかった。演じた方が楽なこともよくわかっていたし、その方が会社の売り上げのためになることも知っていたし、そんな私を上司が扱いづらいと思っていることにも気づいていたが、仕事の顔で仕事をすることは、まるで身を売るかのようで、やはりできないものはできなかったのだ。(相当面倒くさい人だったはず)

今きている宇宙大変革の流れのなかで、自分がどうしたらいいか、どうしたいか、言わば魂の覚醒が起きている人はだいぶ増えてきていると思うのだが、やはり、本来の自分の姿で行動することの怖さに、一歩を踏み出す勇気が出せない人も多いと思う。私も本当に怖かったからよくわかる。その怖さが幻想であるとわかったとしてもだ。なぜなら、私は傷つくということを経験してきた心のある人間だからだ。

ただ、今では有り難いことに、学校の先生から教われなかった大切なことを、バシャールやエイブラハムやエクトンのような宇宙先生たちが地球に介入し、教えを説いてくれている。意識交流を担当してくれている人や、更には、それを伝え広めてくれている人たちもいる。何が幻で、何がほんとうか、今この瞬間に心に平安をみることができた時に、わかるのだと思う。

って、大いなる存在を持ち出してしまったが、いちばん自分に影響を与えてくれたのは、やはり、私が私の人生で出会ってきた人たちだ。その人たちとの交流を通して、学んだことが大きい。出会った人たちがみな、この世の理を知っていて、私へと大事なことを教えてくれたわけではない。その時々をお互い懸命に生きるなかで、様々なカタチで(心地よくない経験も含めて)影響し合ってきたのだと思う。すべては本来の自分を生きるため。グループソウルだったのだろう。集団で転生してきていると思う。

私は今、自分(自我=エゴ)から離れて本来の自分で表現ができるようになってきたところだ。この地球に生きる人たちはみーんな自分と同じものでできている。だから、どんなにバカにされても、笑われても、人間としての経験上、痛みは避けられないが、私は神さま(魂の源)に守られている。

話が前後するが、YouTubeの動画に明らかなディスりコメントがきた。初めての経験なので、見た時一応手が震えた。身体の反応はわかりやすい。私は、''すべての人はいつかの自分''という信念をもっているのだが、私が生きる理由のひとつに、その、いつかの自分のために行動しよう!という想いがある。私をディスった人もいつかの自分だ。幻想を生きていた時の自分。真意など伝わらないかもしれない。だけど、コメントを書き込むということは、その人の何かに触れたということだろう。そこに希望をみたいと思う。いいも悪いも表裏一体だ。幻想に付き合う気はないが、全部受けとめたい。自分を含めた全体のために。

自分は自分が思ってきた以上に、勇気があることを認めた。私の尊敬する先人たちに習って、強い気持ちで行動していきたい。

地道な一歩の積み重ねで、道が拓いていくと信じて。

 

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ごはんを食べて、滝藤さんの写真を見ながら、柄シャツイン柄シャツという、彼の常人には決して真似できない突出したファッションセンスの異常なカッコ良さに、ワーキャー言ったりしていたら、急に、『私は一体何やっちゃってんだろう?笑』という気持ちが降って湧いてきた。ディスりコメントを書いてくれた人の方がまともなんじゃないか?とまで思えてきた。これはもう、もしかしたら、私は私で遊んでることに気づいてなかっただけなんじゃない?って視点に立ち返る。さっきまでは、自分のやっていることに正当性を持たせようとして、必死に弁明しようとしていることが、文章を読んで伝わってくる。きっと、ディスられた自分をかばいたかったのだろう。

嗚呼、なんて健気な私。

人間業界を生き抜くために、傷つかないように、自分で自分をかばうなんて。そういうことをずーっと長い間、無意識にやってきたんだろうな。なんかそう思うと尚更自分が愛おしく感じられた。

よし、ここからは、『何やってんですか?』て笑われたら、ただひと言「あそんでます!」て答えよう。だって、やりたいんだもん。もっと言ったら、あそび=しごとの時代が到来したと思いたいのだ。私を見て笑ってくれたなら、それがどんな理由だろうと、いいじゃないか。相変わらず頭のかたいクソ真面目な自分に大事な気づきをくれた人に感謝しよう。そうしよう。

 

今日はもうひとつ非日常的な体験をしたので、話したい。菊理媛という神様に呼ばれて行った神社からの帰り、最寄り駅の改札を出たところで、大きな紙袋を提げた外国人の女の人に呼び止められた。その人は日本語で書かれた紙を私に見せながら、『クッキーを買ってください。』と言った。紙には、『わたしのなまえはシェリーです。お金に困っているので、クッキーを売っています。買ってください。』的なことが書かれている。どんなクッキーかというと、外国版のキットカットみたいな個包装のお菓子が5個、透明なひとつの袋に入っていた。私は咄嗟に「いくらですか?」と尋ねた。すると、『ゴヒャクエンです。』と返事が返ってきた。キットカット5個500円は完全にぼったくり価格だ。..どうしよう。ちょっと悩んで「ごめんなさい!」と言ってその場を立ち去った。実は以前似たようなことがあり(非日常じゃないんかい!)ホームレスと名乗るおじさんに、お腹が空いて死にそうなんでお金ください🤲と至近距離で直訴され、面食らった私は、思わず500円玉を渡したら、明らかに不満そうな顔をされるという苦い経験をしている。貰っといて不満そうな方にも問題あるじゃん!笑と、今なら冷静に思えるのだが、あの時は、千円も渡せなかった自分を情けなく感じ、お金を出した自分の方が自分を責めるという事態が起きたのだった。

シェリーから離れ、歩きながらよく考える。あの時の自称ホームレスのオッサンとは今回は事情が違う。だって、キットカット5個500円は確かに高いけど、それでも、シェリーなりに考えて、キットカット5個と、500円を交換してもらえないかな?という気持ちでやった切羽詰まった勇気ある行動に、私は気持ちで応えられなかったのかと思ったら、そんなちっさい人間に成り下がるなんて、以前の経験がまったく生かされていないじゃないか!と、自分に怒りが湧いてきた。すぐさま引き返す。シェリーに『やっぱり買います!』と言って、500円とキットカット5個を交換した。シェリーに喜ばれる。『ありがとうございます。ᴛʜᴀɴᴋʏᴏᴜ𝒗𝒆𝒓𝒚 𝒎𝒖𝒄𝒉!』と、笑顔で何度も頭を下げられた。

帰り道、「シェリー、一度断ってごめんね。しかも、千円渡せなかった私を許してね。」と、心のなかで呟く。

次、こんなことに遭遇した時には、絶対、黙って千円渡せる自分になっていよう!と、固く心に誓った。

情けない自分からは、卒業の時が来ている。

 

 

 

 

 

 

白龍は笑っていたのかもしれない