シュリ日和

まいにちに生きる

梅と弔い

 

昨日はお祝いをした。

私の人生初のLoveWorkの納品と、報酬を受けとった記念に。

ハイライフという、魂が一番輝いて生きた時代の私(同じ魂の人)は、''…自分には何もできない''と、愛そのものとして存在しているだけで、本当にただそれだけでよかったそんな自分の価値を信じきることができずに無念で亡くなったという。そんな哀しい想いが、ようやく今生において昇華されたのだ。お祝いしない訳にはいかない。

LoveWork、それ自体やらなくたってほんとはいいのだ。私は生きてるだけで価値があるから。生きてることがLoveWorkそのものだから。

だけど私はやりたかった。自分に当たり前のようにできることで人から喜ばれることは、とても嬉しいことだから。そんな経験ができることは今を生きてるからこそだから。有難いことだから。

特定の何かになりたいとは思わない。その時々で、好きなように好きなことをして、人と関わり合って生きていたい。

私は、何でも屋でありたい。

お祝いのケーキがとてもよくできて、誕生日ケーキ職人をやろうかと本気で思ってる。誰かがこの世に生まれた日を祝う記念のケーキを心を尽くして作りたい。ひと口食べた時に、''生まれてきてくれてありがとう''って誰かに言われた気がするような、そんなケーキが作りたい。

私には夢がある。今生叶えなければならない夢が。その気持ちが最近やっとフラットに力が抜けた状態で当たり前に叶うと思えるようになってきた。

以前は焦ったり、力んだり、馬鹿にされたり、うまくいってないと思わせるような揺さぶりをかけてこられたり、他人を使ってダメージを与えられたり、、夢なんか叶うわけないと、色んな方向から妨害をされてきた。

それら犯人はぜんぶ、頭の中のニセモノの自分だった。

 

今日、ある人の息子さんが天国にいった。その人とは面識はない。面識はないけど、面識のある他人より余程身近に感じる存在の人。その人のおかげで、これまで何度も過去生で刻まれた深い傷が癒されてきた。だから勝手に感謝している。その人は肉体が亡くなる前の息子さんの魂と沢山話をして、息子さんから『俺は何も心配してないよ。奥さんも子どもたちのことも天国で見守っていくから大丈夫』だって聞かされながら、その人自身も、亡くなっても大丈夫って頭ではわかっていながらも、人間を生きている自分は鬱になって動けないという状態をリアルタイムで発信してくれていた。

それでも生きていて欲しい。その想いは人間である以上無くせない。無くせないよ。

リアルのなかにしかないもの、リアル以外ぜんぶ偽物。

リアルを直視する恐さから逃げて、幻想のなかで怒ったり喜んだり悲しんだり…そんな風に死ぬまで生きていたくない。だったら今すぐ死ねばいい。それでも、肉体は簡単に死ねないんだから、生きるしかない。死ぬほど苦しい気持ちと共にリアルを体感して生きるしかない。

こんなこと、フラットに言ってる私は孤独だ。周りを見回しても仲間がいない。傷だらけになる勇気はいつから私のなかにあるのだろう。傷ついても大丈夫だと、いつからそんなに強く思えるようになったのだろう。

 

昨日今日は、お祝いと共に弔いの日だ。生と死は裏表のようなもの。

一昨日、麻布の裏道を歩いていたら、早咲きの梅が咲いていた。石垣に登って写真を撮ったらそこは墓地だった。

供養の写真を撮っていたのだろうか。

梅を撮った私の心は明るかったはずなのに、その写真をじっと見ていると、なんだか淋しさが漂ってくる。それでもずっと見続けていると、蕾が開き始めたばかりの梅の花に、希望の芽吹きを感じる。

それが花の力だ。

生命力だ。

弔いの写真が彼女の痛みを和らげ、希望を向く力になれたらと、すこしだけ願いながら写真を眺めている。

 



人は哀しい生き物だ