シュリ日和

まいにちに生きる

花を咲かそうよ




7月だ。

6月最終週はちょっと元気すぎた。天から力を与えてもらっていたんだろう。ちゃんと反動がきて、昨日は恐れが湧いてきた。縋るようにバシャールの動画を観たり、大祓祝詞を聴いたり色々したけど、変わらず。なんとかやり過ごすことで精一杯だった。どんなに宇宙理論に基づくこの世の仕組みが頭で理解できても、人間としての経験は一朝一夕に身につくものじゃない。行動することの怖さも、数を重ねれば消えるってことでもないのかもしれない。私にはそれを先にお手本としてやってみせてきてくれた大切な人がいるから、自分が行動してはじめて、その人のやってきたことがどんなに大変なことだったかが、身に染みてよくわかった。『こういうことだったのか』と。

もちろん、その人と私は別の人間なんだから、同じことを感じていたかどうかは、その人に聞いてみなきゃわからないことだけど、ずっと見てきたから、感じるものがある。自信が漲る時もあれば、自信なんて皆無状態になってしまうこともあっただろう。それでも、挑戦する姿勢を見せ続けてくれたことは、ちゃんと私に(みんなに)力を分けてくれていた。


苦しかったよね。

しんどかったよね。

心細かったよね。

逃げ出したかったよね。


ちゃんと、わかってたよ。


男ってほんとに大変だ。女よりずっと繊細で優しい生き物なのに、たったひとりで戦に出るよう育てられてきてしまったのだから。だから、女の私は、疲れた羽を休ませてあげる温かい帰る場所でありたいと思った。‥そう思ったくせに、私の魂はその本質が戦い気質なため、黙って穏やかに見守ってばかりもいられない。自分の心に響く誰かの頑張る姿を見ると、つい自分もなんかやりたくなってしまう。やりたくてやってるんだから、それはそれで意味が無いわけではないんだろうけど、男が帰る場所としての自分になるには、まだ未熟なのかも。横に並んで共に戦うことが先。そんな気もしている。


ほんとについさっきまで、自分には何もできない。みんな頑張って働いてるのに、自分は一体何をやっているんだろう。このままでいいわけない。そんなネガティブな思いに囚われていた。そんな時に、YouTubeの自動で壱岐島龍神がいる神社の動画が流れてきたのでなんとなく観てみたら、狛犬の代わりに配置された龍神の石像をアップ主がアップ(ややこしい)で写していたので、龍神様からメッセージを受け取ろうと、心のなかで話しかけてみたところ、返事が返ってきた。


🐉『お前はよくやってる。お前はよくやってるから、泣け。笑え。楽しめ。』と。


すると、私の頭にひとつの曲が浮かんだ。沖縄出身の喜納昌吉という音楽家の''花''という曲。『泣きな〜さ〜い〜、笑〜い〜なさ〜い』というフレーズに聞き覚えはないだろうか。あの歌が突然頭の中で流れ出したので、さっそく喜納さんの''花''を聴く。生きることの喜びと悲しみが同時に込み上げてきて、思いっきり泣いた。思いっきり泣いたら、そのあとで、思いっきり笑うことができた。自分のなかに湧き上がってきていたネガティブは一掃され、スッキリと晴れやかな気持ちになる。きっと、浄化を必要としていたのだろう。やっぱり、龍神様って凄いのかもしれない。受け取る能力も、毎日コツコツ意識を向けてこそ上がるものだと思う。

ある透視能力がある方が言っていたのが、私たちが自分だと思っているものの90%くらいが実は自分じゃない(他のエネルギー)と。私もそれには薄々感づいてはいたのだが、90%ともなると、毎日浄化してなきゃ本当の自分なんて、わからなくなって当然だ。浄化も色んな方法があるし、その時々の自分に合うやり方が移り変わるので、いつも自分をちゃんと見てあげていないと、今日の前半の私のように、自分じゃないものに囚われの身となってしまうだろう。ネガティブは幻。なぜなら、私たちの魂のルーツは宇宙の源、ソースや愛や光と呼ばれる高次元にあるからだ。ネガティブは、この地球に蔓延る低次元意識の集合エネルギー。負のエネルギーが蔓延しているなかを、私たちは日々、人間活動しなくてはならないのだ。しんどくて当然。だけど、そんなここ(地球)にしかないものもある。それが、喜納さんの''花''を聴くことでわかる。ここでは、喜びと悲しみの両面を体験できるということだ。どっちもあるから感動がある。二元性の世界。陰と陽の世界。それは、愛と喜びしかないエネルギー交流により成り立つ高次元では体験できない貴重な場所。じゃあ、悲しい経験は貴重だから、人生で悲しい経験をいっぱいした方がいいかって、そんなことは全然思わない。基本が辛く苦しいがベースな場所で、常にネガティブエネルギーに支配されがちな精神と肉体をもちながら、いかに、高次元のような世界観で生きられるか、そこに私は挑戦しているんだと思う。したいんだと思う。

ずっと本気であそぶことについて考えてきた。自分が高波動な状態の時に、本気であそびたい!と思っても、辺りを見渡した時に、一緒にあそべる仲間はいなかった。でも、それもそのはず。私は半ば変態的に、スピリチュアルと呼ばれるものを独自に探求してきたから今こんなこと言ってるけど、自分が知りたいと思って調べない限り、これらのことを教えてくれる教育機関は無いし、つまり、共にあそべる人がいたとして、その人が私と同じようにこういった地球や魂や人間の仕組みを理解していない場合、本気であそぶは成り立たないと思ってきた。

けれど今は考えが変わった。いちばんいいのは、そんなこと関係なしに、老若男女、とにかくみんなが馬鹿になってあそべたら最高だ。それには、自分が今言ってきたこと全部とっぱらって、楽しさを伝染していくことなんだよなぁ〜。楽しそうに生きてる姿を自分が見せることができたら、楽しそうな気配につられて、寄ってくる人たちがいるんじゃないかな。自分が自分を楽しめたら勝ち!数年前から座右の銘としているが、なかなかその状態を保ちつづけることは、成し難い。


お前はよくやっている!

龍神様の声を今日は素直に受け入れて、自分に優しくしたいと思う。






ネーミングセンスあり🍌