シュリ日和

まいにちに生きる

武器は役に立たない




今回の選挙から学んだことを話したい。大方の予想通り、結果はほぼ茶番に終わった。それでも私個人的見解を言わせてもらうならば、得たものは大きかったと思う。


1.大事なことは過程

2.結果は後からついてくる

3.そこに希望があるかどうか

4.いい未来を信じる気持ちが、いい未来を創り出す

5.諦めるまでは試合は続く


選挙に行く意味はない(どうせ不正が行われているから)これからは政治に期待せずに、自分にあるものに感謝して身近な人を大切に生きていく時代だ、みたいなことを言う人たちがいるが、多分そのメッセージには、誰かや何かに現実を変えてもらいたい、誰かや何かに依存して救われたい、と思っている人に対するアンチテーゼ的要素が含まれているのだろうな、、とは察しがつくが、私は世界は役割分担で成り立つと考えるので、自分の村が平和ならそれでいい、とは思いきれないところがある。分かり合えない考えはもちろんあるだろう。近い将来、違う思想の人と人は、お互いに感知することすらできなくなる、なんて話もあるくらいだから、自分と違う思想の人たちとは、関わり合うことすらできなくなる日も、そう遠くないのかも知れない。それなら尚のこと、今ここで関わり合うことの価値はあるんじゃないだろうか、なんてことの方についつい目を向けてしまう。棲み分けって、どうしても偏りを感じてしまうのは何故だろう。

私だって、できることなら、自分が毎日ハッピーで、愛する人のそばでニコニコ笑って平和に暮らしていたい。それがいいに決まってる。いいに決まってるのに、安心安全が保証されているユートピアにずーっといるだけじゃ、自分が生まれてきたことの意味の半分だけのようにも感じてしまう。もちろん、ユートピアも体験したい。それこそが私自身の、さらには、私へと命を繋げてくれた先祖代々の悲願だと思うし、今世はしあわせにしかなれないのはほぼ確定しているのだ。

だけどこの国には、生まれた時から嘘のなかで育ち、嘘に自分を乗っ取られてきてしまったことにまだ気づけずにいる、眠れる獅子のような人たちが山ほどいるのだ。自分は気づいたから一抜けた!という訳にはいかない。というか、いかないよなぁ〜、と、勝手に思っている。政治を変えたいと立ち上がった人たちも、気持ちは近いんじゃないかな?わからないけれど。


タイトルの、武器は役に立たないとは、連日このブログ内で報告している、YouTubeについての話になる。私は、魂が目を覚ましてから、自分に自由に表現をさせてあげたいと、ずっと思ってきたのだが、結構な期間、どうしても自我から離れられずに行動が起こせないでいた。魂の目覚めとは、スピリチュアルの目覚めとも言える。人間を知るには宇宙理論は欠かせないということを知り、学んだことで、私は弱い心を護るための智慧という名の武器を身につけた。

'' 演じずに自己を表現したい。裸のままの自分で生きたい ''

その希望を叶えることはハードルが高かった。だから、智慧を身につけたというのに、私を守ってくれるはずだった武器は、蓋を開けたら何の役にも立っていない。武装しても意味がないことがわかった。まだ慣れていないだけかもしれない。慣れるのを待つより、武器は捨てちゃう方がきっと早い。智慧に頼るな!己を信じて突き進むんだ!どこからともなく、私を励ます声援が聴こえてくる。

''だけど怖いよ。全然怖いよ。ほんとは弱音を吐きたいよ。ねぇ、神様。助けてよ。''

毎日心の中は絶賛葛藤中。好きでやってるのに、何その一人芝居?!って笑われるかな。確かに、誰にも強要されてないし、自分がやりたくてやりだしただけなんだから、別にいつやめてもいいのだ。でも現時点でまだ私は、気持ちよく裸のままの自分を生きれてはいない。 これでいーのだ!って、バカボンのパパのように潔く言えていない。私は気持ちよく、これでいーのだ!って笑いたいのだ。葛藤のど真ん中をこれでいーのだ!って言いながら堂々と空を仰いで胸を張って歩きたい。それが本心である以上、やるしかない。自分の期待に応えてあげられるのは、自分しかいない。

ほんと頑張らせるよね。往生際の悪さは、きっと人一倍なんだろう。


私は今日も生きている。






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