シュリ日和

まいにちに生きる

信じてきたこと




昨日、大事な節目的行事を終えたので、気持ち的にも身体的にも、生まれてからこれまで繋がってきた世界とのエネルギーが自然の流れの中で切れた。いま、悲しさも寂しさも内包した安心を感じている。すべては元に戻っていく。それは、とてもいいことなのだから。

いつからか私のなかに、身内といる時の自分を客観的に眺められる自分がいるようになり、『…ああ、私はこんなにも頑張って自分の役割を立ち回ってきたのだなぁ〜』と、ずっと神さまから切り離されていた自分と心のなかで一緒にいることができるようになった。私が切り離さていたと感じてきたのだから、きっと、その私が生きてきた世界線では、みんながちょっとずつ本当のカタチではなかったのだと思う。

私は、ひとりひとりのことがよくわかってしまう能力のようなものが幼い頃からあった分、如何にしたら調和を保つことができるかを考え過ぎていたのだろう。考え過ぎていた時、私は私から遠く離れていた。いつも取り残されたのは、愛される存在であるはずの自分だった。波風を立てぬよう、自分をみんなに合わせることは、ほんとうから離れることだったなんて、その時は気づくわけなかったのだ。私はこどもだったのだから。

大人になって、色んな人との関わりの中で、傷ついたり、傷つけたりという経験を積み重ねたことで、やっと、波風立ててでも、自分が本来の自分を生きることを選ばない限り、永遠に全てが本来の在り方に収まることは無いことを知った。知ったからって、おとなになった自分が、こどもの頃から経験のないことをやることは容易ではない。ひとつずつ勇気を出して今までとは違う選択をし、行動を変えていかなければ、知った真実はカタチとして自分の前に現れない。

神さまから切り離されてきた自分と、いつも一緒にいられるようになったかと言うと、残念ながら答えはまだNOだ。いつも一緒にいられる状態というのは、感謝の気持ちに包まれてる瞬間が持続されている時だと思う。常にどんな瞬間も有難いなぁ~と感じ続けることができた時、神さまと繋がっていることも実感できるだろう。この修行については、かなり変態的に取り組んできてはいるから、だいぶ進んでると思ってるが、まだいつでもYES!と言えない。私はいつでも笑ってYES!と言えるようになりたいから、感情を揺さぶられては、自分を押し込めてきた経験の記憶を乗り越えて、いつも自分で(自分と)いられるように、日々を生きるしかないのだろう。過去の自分を超える勇気が自分にあると信じて、進んで行くしかないのだろう。


信じてきたことをどこまで信じ抜けるか、ただそれだけだ。一歩進んでは三歩下がってるように見えることも、水面下では着実に進んでいるって、そういうことにしなきゃ人間界なんてとてもやっていけない。

このブログの内容もだいぶ古くなってきている気もするけど、過去の自分(と同じ今を生きてる人)のために続けていきたい。

だけど、もう飽和状態に来ているのかも知れないことも、、正直否めない。


新しい何かが、まだ見えていない目の前の道にあることを感じている。







2022年8月11日 太陽