シュリ日和

まいにちに生きる

友だちのこと

 

 

 

昔の友達が夢に出てきた。

その子とは小学校1年生の時に同じクラスになり仲良くなった。同じクラスだったのは、1.2年の時だけだったけど、数少ない友達のひとりだ。

その子は三姉妹の真ん中だったこともあってか、性格は中性的でわりとサバサバしていたけれど、何かうまく言えないのだけれど、その子が胸の奥に秘めてるものと、私が胸の奥に秘めてるものが似ているような気がして、いつも気になった。その、気になるは、執着とも言えるものだったかもわからない。

私には子供時代、今は疎遠になってしまったけれど、三姉妹の真ん中として生まれた友達が3人も4人もいる。みんな真ん中っ子。真ん中っ子と縁があった。共通点は、みんな明るくて元気でよく笑う印象。だけど、表には見せない影のようなものをそれぞれ抱えていたように思う。その影の正体は何だったのだろう。未だに解明できていない。

夢に出てきたYにもまた影があった。小学校卒業する頃に、Yの両親が離婚し、当時あまり離婚してる家庭が周りに少なかったこともあったからか、なんとなくその頃からあまり元気がなくなったように見えた。もっとも、表立って暗くなったってわけじゃなく、私がなんとなくそんな風に感じたということなのだけど。

中学校も8クラスある中、1年の時Yと私は同じクラスになった。Yも私もその頃は受け身なタイプで、それぞれに私たちと仲良くしたい子がいて、直接Yと私が2人で行動を共にすることはなかったが、よく同じ班になり、授業中に手紙を回すくらいの距離感にはいつもいた。

忘れもしない、ある日の理科の授業のこと。理科の教科書の別冊みたいな本(資料集?)に、私の大嫌いなトノサマバッタの見開き全身カラー写真が載っていて、それを私がビビるのを見たいがために、後ろの席のYが、手紙を渡す時に振り返る私の視界にトノサマバッタが映るようにと、机にバーン!と開いておくというイタズラをしたのだ。私はYの思惑通り、椅子から飛び上がるほどビビった。あの時のYの嬉しそうな顔は今でもはっきり思い出せる。また別の日、うちに遊びに来たYは、私の机にどこから見つけてきたのか、トノサマバッタの小さなカラー写真(新聞の記事だったかも)の切り抜きをこっそり立てかけて帰るなど、気に入ったイタズラを繰り返しては、喜んでいた。

小学校1年生の頃、Yは一緒に遊んでいた私の手を取り、自然に手を繋いで走った。私は今でもその時のことを鮮明に覚えていて、とても嬉しかったけど、それと同時に『私が自分から友達の手を取り繋ぐことはできないな。』と思ったのだった。

 

私たちの縁は不思議なもので、ちゃんと大人になるまで続いていた。高校も別だったし、とにかく2人で関わることはほとんどなかったのに、彼女が結婚して愛媛に行ってからも、年賀状などのやりとりをしていたのだった。

Yと私は、多くの言葉を交わしたわけじゃない。明確なコミュニケーションを必要としない間柄だったからこそ、普段は他者との間に境界線をひいていた心のなかに、相手を受け容れることができたのかもしれない。そして、そこには共鳴する心の影のようなものがあり、それが引き合って、縁が続いていたのだろうか。

わからない。

連絡先も今ではもう知らない。生きてる間に二度と会うことはないかも知れない。だけど、出会っては別れ、忘れていった人々のなかで、Yの存在の面影は私の心の片隅に確かに残っている。生きていても死んでしまっても、忘れないということは、共に生きているということなのだろう。

 

Yの誕生日は夏至の日だった。

 

 

 

 

元気でいますか