シュリ日和

まいにちに生きる

墓参り

 

 

一年ぶりに千葉のお寺へと墓参りへ行った。

昨年の父の七回忌は、母の段取りの悪さにより、ただみんなで墓の掃除をして、線香と花だけを供えるに留まったが、今年はリベンジとばかりにお坊さんにお経を唱えてもらった。父が亡くなって今年で七年が経つ。(数え年で)

私自身の人生が大きく方向転換を始めたのが、正に2015年の年明けからで、春、夏に大きな出来事があり、秋に父が亡くなり、続けざまに離婚まで決意して、冬には就職を決めた。

あんなに駆け抜けた一年は、後にも先にもあの時限りで、今の自分があの時の自分を思うと、胸が痛くなると同時に、ほんとによく頑張ったね!って言ってあげたくなるほどの、頑張りようだったと思う。全てを敵に回しても、私の心は動じることなく、まるで不動明王が私のなかに入って、あのイカつい顔でもの凄いパワーを送ってくれてたのかも、なんて想像ができるほど、あの自分は、どこにそんな力があったんだ?!と不思議に思うほど、すごい勢いで物事を終わらせては始めていった。

 

あの一年があったから、今がある。あの一年がなければ、今はなかった。そう思うと、本当に本当に心の底からあの時の自分に『ありがとう』と感謝したい。

 

これには父の死も大きく関係している。父が自らの命と共に、私の自由を長年封じていたブロックを天へと持って帰ってくれたことも、私が動けるようになった要因のひとつであることは間違いない。亡くなった人はみな、神様になって自分を見守ってくれる存在になったと考えている。だから、父にもいつも天から見守ってもらっているだろう。ありがとうね、お父さん。

 

お墓の前でお経を唱えてもらう時間はいい時間だった。言霊の力なのか、心がすーっと整っていく気分だった。だけど、本音を言うと、千の風になっての歌詞じゃないけど、墓には祖母も父もいない。だったら、お経あげてもらう必要なんて無いんじゃない?とも思った。たぶん祖母にも父にも聴こえてないから。つまり、日本の死にまつわるエトセトラは全て、生きている(生き残ってる)人のためにあるのだろう。

人が死ぬ。死亡届けを出す。火葬する。お通夜をする。お葬式をする。墓の準備。回忌ごとの諸々…

ちょっと想像しただけでも超大変。

 

''嗚呼、気軽に死ねないな''そんなことを思う。

 

私はエンディングノートを絶対に書き残したい。残った人に負担をかけたくない。できるだけ自然に死ねたらいいな、と願う。火葬が嫌だ。火葬場で残った骨なんて拾って欲しくない。土に還る綺麗な麻の布かなんかで包んで、木の養分になるように根下に埋めてもらえたらいいな。写真でも飾ってたまに話しかけたい時に話しかけてくれたら十分だし、別にそんな事もしてもらわなくてもいい。忘れてくれていいのだ。生きている人とのことは生きている間がすべてだと思う。生きている間は憶えていて欲しいけど、死んだあとのことは忘れて欲しい。なんとなくそれが自然な気がしている。またどこかの惑星で会えるかもしれないし、会えないかもしれない。だから、生きている今、生きている人へと心を尽くしたい。

 

『自分は思う存分愛したんだ』と思って死なせてもらえたら、愛する人へ思い残すことはないだろう。それが最大の感謝になると思う。

 

こんなこと考えてたら、愛されるって生きてる間にできる大仕事なんだなって思えてきた。愛させてあげることは、最大の仕事なのかもしれない。少なくとも私の死生観ではそういうことになる。

 

他の人はどうなんだろう?みんなどう思うんだろう?みんなのそれも知りたい。

 

 

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自然の営みは

 

どんなことも美しい

 

そこにある

 

生も死も

 

静かな流れの途中に

 

ただあるだけ

 

 

 

 

 

花という供養