シュリ日和

まいにちに生きる

変わらないもの

 

 

もしも、これまでの人生のなかで後悔していることは何か?と聞かれたら、敢えて答えるとしたら、10代の頃にインドに行けなかったことだ。

もちろん今からでもインドに行こうと思えばいつでも行ける。

だけど、あの多感な10代でしか感じ取れなかったであろう大事な何かがインドには確実にある気がして、それはもう、色んなことを知ってしまった今の自分では、感じられるものが変わってしまった気がしている。

それはもしかしたら、精神的な部分よりも、体が変わったことの方が大きいかも知れない。

精神はある一定の気づきに達した時点で、それは肉体と関係なく生き続けることができるが、体は有限だから。

若い肉体が放つエネルギーと、インドに流れる爆発的な混沌とした生命エネルギーとが合わさり、化学反応が起きると生まれるものが何であったのかを、私はもうこの人生で知ることはないのだなぁ〜と思うと、少し悲しい。

最も、そんなこと思うくらい10代にインドに行くことが大事なことだったのだとしたら、それを実行していたら、多分人生はこうなってはいなかったのだろう。結果論にこだわっても意味が無い。あの頃インドに行かなかったのだから、行かないのがベストだったということだ。

 

新しいブログを始めようかと思ったけど、やめた。


私は自分でブログを始めるまでは、漫画やアニメや映画などが、例えば、セカンドシーズンや、〇〇編や、シリーズ第2作!とかが生まれる理由がよく分からなかった。なんで、同じ作品がまったく違うテイストのものになってしまうのだろう?と疑問に思っていたが、今ならなんとなく分かる。

朱里日記というブログをやめる時に、ずっと変わらないものと、変わっていくものがあることを自分の内面に感じ始めて、その変わっていく方の自分が、もう朱里日記のなかにいた頃の自分とは確実に違うことを自覚してしまったことで、終わらせた。

そして、朱里日記2を始めたのだが、それは完全に期間限定もので(その時は自分では無自覚だった)しかも、ほとんどあの時の自分は自分というより自分じゃないものをハッキリ感じきるための3ヶ月間だったため、ブログごと消した。あの時は、幻想の自分と普遍的な存在としてある自分とが混在していたのだ。それは赤と青とでくっきりはっきりと境界線があり、愛と愛ではないもの(分離そのもの)のように、自分と自分とは遠く離れていて、ほんとうの私ではなかったから、残す必要もなかった。分離の終わりと共に消すのが自然と思いそうした。

そう考えると、今回私は私の内側でバージョンアップが起きた気でいるのだが、シュリ日和を続けてきた私のままそれは起き、普遍的なシュリが消えた訳では無い。新しい扉を開いても、まだその先にまた違う新しい扉があるのと同じで、シュリはまだ道の途中でしかないから。

このブログを始めた時の私と、今の私は同じ人間だ。だから、このまま続けていきたい。

 

って、誰に向かって説明しているのだろう。自分の内面整理をしているのだろうな、きっと。

今日の満月はスノームーンというらしい。直訳したら雪月だ。なんか美しいな。

満月の日の思い出がいっぱいある。この人生だけではなく、いつかの人生のなかにもそれは確かにある。

その時々に感じた想いは、いいものよりも、辛く苦しく悲しいものの方が多かったけど、『あんなに綺麗なお月様のせいにしない!』と言った自分を今でもちょっと好きだったりする。私は、月の光と闇の、光を見ていた。

 

だから、お月様はどの人生においても、私の目にはずっと美しい姿に映っていた。

 

 

時を超えて