シュリ日和

まいにちに生きる

負けた喜び

 

先月、ある町のあるカフェのソファ席に座った時、天と繋がってしまう現象が起きた。その場所は間違いなくパワースポットだったようで、それからその店に行くのは今日で3回目だったが、店内はそこそこ混んでるわりに、3回共に何故かその席は空いていて、まるで大いなる存在が私のために空けといてくれているかのようだった。迷いなく座る。今日は何が降りてくるだろうか。

YouTubeでタロットリーディングや不思議な世界の話をしているチャンネル登録者数3万人ほどの人のサブチャンネルの動画を観る。視聴者からの質問に答える回だった。それを観ていて、私だったらこう答えるなぁ〜…などと想像していたら、あることを閃いた。それは、勝手にその人にきた質問を私が私のYouTubeチャンネルでお答えする動画を撮ってみたらどうだろうか?というものだった。

真夏の太陽が照りつける中、チャリで不忍池まで移動。蓮の花を撮しながら撮影した。内容は家族の問題の解決策の提案。無事撮り終えて自分で内容を確認した。2回連続で聴いたら、私の話した内容は、表面的な解決策の提案であることに気づく。本気でその物事の根本的な解決を図るのであれば、また違った角度から切り込まなければ駄目だな、と思ってしまう。

そこで私は、もうこれは私の役割ではないのではないか?そう思い始めた。何故なら、それをもうとっくにやってくれてる人がいることに気づいたから。私がこの分野に今からどんなに頑張っても追いつかないくらい遠くに、先にやってくれている人がいたということは、私はもう安心して負けていいということなのではないだろうか?そう自然と思えた。

これまでを振り返る。

実はこれまでに何度も私はこの分野に挑戦してきている。自分のなかで手応えを感じるところまで到達する度に、先にそこに到達している人の言葉が頭に浮かんできては、敗北感を味わった。

かつて尊敬する料理長が言っていた言葉を思い出す。初めてその料理を考えた奴が一番偉いんだよ。俺はその料理をただ真似して作ってるだけだって。

……私はずっと悔しかったのだ。その人に負けたくなかった。頑張りたかった。私だってできる!って証明したかった。

だけどもう、ここは素直に負けを認めて、私にしかできないことをやった方が良さそうって、なんかスっと肩の力が抜けた。負けちゃえばいいんだ。本当はいつ負けてもよかったのに、なかなかそう思えなかっただけなのだ。

だけど、今日そう思えたということは、気が済むまでやったんだと思う。やっと気が済んだんだと思う。私は気が済んだ。どうして今日その境地に至ったかはわからない。だけどはっきり言えるのは、今の気分は清々しいということ。

今日は最高に美味しいトマトを食べれた。

それだけで、女の私は最高にしあわせを感じている。

 

 

アンパンマンがいっぱい