シュリ日和

まいにちに生きる

最後の砦



私にとっての最後の砦が何であるか、もう随分前に気づいていた。それを突破しない限り、人脈も金脈も流れの回路が拓いていかないこともちゃんとわかっていた。

だけど、それと向き合い行動することはやっぱり怖いことで、守り抜いてきたものがただの執着なんてものではない、もっともっと遠い昔、生まれてくるずっと前から大切にしてきたものであるからこそ、慎重に注意深く観察し、本当に解放していいのかどうかを見極めてきたようなところがある。ひとつ間違えると大変なことになることを知っていたから。

 

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秋に、ガラスの仮面をLINEマンガで無料で読み始めてから、青梅の河原で開催された身体を使ったワークショップに参加し、心惹かれる舞踏家の人の存在を知り、その人がただ歩く演技で出演された映画を観て、更にドイツの有名な舞踊家であり振付師でもある最高にイカしてる女の人の存在をまた知って、その人が振り付けした踊りのオマージュ映画の動画を見て、そこで使われていた音楽と踊る人たちに完璧にインスパイアされて、一昨日荒川の土手で一人踊った。(説明が長い!)

身体を完全に解放するために。それは、永く封印してきた女性性の解放でもあった。

秋の草の生い茂るなだらかな斜面を舞台に縦横無尽に走り回り、飛び回った。

斜面を挟むようにコンクリートの道が上下に続いていて、そこを自転車で通り過ぎていく人たちがチラホラいることを気に留めることなく、ただ身体が解放されていく過程を見守った。あんなに走り回ったのは、冗談じゃなく子ども時代以来のことだったと思う。

音楽の力は凄まじいものがある。眠りから醒めろと言わんばかりに、リズムが身体に畳み掛けるように染み込んできた。

私は夢中だった。息が切れて倒れ込みかけた時、ナナホシテントウがゆっくりと草をよじ登っている姿が目に飛び込んできて、何故だかわからないけど涙が出てきた。命の鼓動を強く強く感じていたのだ。

それからまた踊り出してしばらくしたら、誰かが乗っていたロードバイクから降りて、かなりの至近距離で私の踊りを見始めたことに気づいた。気づいたけど、お構いなしに踊り続けて音楽が途切れたところで、身体の動きも止まったら、その人(西洋人)が声をかけてきた。

『ちょっと来て。』て。

えっ?って面食らってたら、『すごくセクシーだった。』とかなんとか言われて、あっという間に後ろから抱きしめられてその場に座らされて、危うく勝手に色んなことをされそうになった。

いや、マジで一瞬すぎて、何が起きたのかよくわからなくて、抵抗する暇もなかったのだ。

性を解放することは、やっぱり半端な覚悟でやるもんじゃないなぁーと実感。

なんとかその人から逃げ出して、チャリで逃走したが、あとから『アイツが現れなければもっと踊りは深まっていたかもしれないな、、』なんて気持ちにもなったが、起きたことはしょうがない。昼間で助かった。やられなかっただけよかったと思おう。

なんかこの今日の自分の身に起きた出来事から、昔読んだ村上春樹の『スプートニクの恋人』って話を思い出した。かなりうろ覚えだけど、ある日この小説の主要人物である女は、観覧車から双眼鏡で自分のマンションの部屋を覗き見ると、見知らぬ男(だったか、嫌いな男だったか、)に好き勝手されてる自分の姿を見てしまい、一夜にして髪が真っ白になってしまうってやつ。

今日私は冷静だった。一瞬のことに面食らいながらも、自分が自分でないような錯覚に陥りそうになっていた。あのまま自分じゃない自分の肉体が勝手に男に弄ばれていたとしたら、私はその自分をどんな気持ちで眺めただろう。

きっと、『またか、』と、女である自分に対して諦めるような、虚しさを受け入れてしまうようなそんな気持ちになっていたように思う。

何も感じなかった。完全に心と肉体は切り離されていた。

私の心と体は愛する人にしか開かない。たとえ相手が死んでしまっても変わらない。その想いがどんどんクリアになってきている。誰とも比べない。自分だけの真実を見つめる。迷わない。この想いは未来永劫変わらない。

 

ただ流れ続けていく。

 

 

 

白い花が咲いている