シュリ日和

まいにちに生きる

根拠のない自信

 

 

書こうと思ったことがさっきまで泉のように湧き出していたのに、洗濯物を干してる間に全部忘れた。

 

前に人から、あなたはエネルギーを変える力が大きいし早い。だけど、それを自分のために使えていない。と言われたことがある。

自分のエネルギーはまず自分のために使う。そして、それによって膨らんで溢れた分を他者や周りへと循環していく。

その流れの方が自然であるのに、今まで、自然の流れに逆らっていたふしがある。すぐに外側へと意識が向き、誰かや何かに貢献することで自分の存在意義を確認する、という相手ありきの発想に基づいて行動していた。

 

(あ、ちょっと言いたかったこと思い出した。)

 

私には自分がこの人生のなかで努力によって積み重ねてきた確かな何かがあるわけではない。だから、人(社会)から評価されることもなければ、褒められることもほとんどないし、つまり胸を張れるような自信なんてものはほぼ無い(育ってない)と言える。

けれど、どういう訳か、根拠のない自信となると、人よりも強く『ある!』と言いきれる。根拠は無い。自信を裏付ける何かは何も無い。なのに、それは確かにあるのだ。そして、その根拠のない自信を信じる力は、日々パワーアップしている。どんなに目に見えてる世界に捕まって恐れをなしてる時も、

 

なんとかなる。絶対大丈夫。安心してね。

 

自分の内側からはそんな声しか聴こえてこない。


ずっと、弱者に寄り添う姿勢を大切にしたいと思ってきた。何故なら私自身が社会的弱者だからだ。だけど、弱者になってしまった原因はそれぞれにあったとしても、弱者という立場を決めたのは自分じゃないはず。

 

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自分じゃないもんに自分の価値を決めさせんなよ。

いいんだよ。

根拠なんかなくても、自分が自分をどう思うかは自由なんだよ。

自分がどんな状況にあろうと、人からどう見えようと、自分が好きな自分であればいいんだよ。

心のなかでその自分を赤ちゃんから育てていけばいいんだよ。

日々のなかで、短くてもそんな真の自分育児の時間をつくって、めいっぱいこうだったら良かった、と思う可愛がり方で自分を甘やかして、いつかその自分がこれをやってる自分の面倒を見てくれるくらい大きく強くたくましく育っていくところを想像するんだよ。

そんなこと誰もやってくれないから、自分にしかできないから。

 

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……さっき母に、私が娘の成人式の振袖の着付けをYouTubeの動画を見ながらやると話したら、開口一番、『それは無理!振袖の着付けなんてできるわけないじゃない。』と言われた。ムカついたので、『あたしがやってあげたいの。もちろん上手くは出来ないかもしれないけど、やってみなきゃわかんないし、そのために練習するの。』と、強く言い返した。

私は子どもの頃からこの人のこういう言葉を鵜呑みにして、自分にはできないと何度思わされてきただろう。いつも言い返すことができなかった。自分の頭で考える力がなかったから。その力を奪われる環境で育ったから。言われたら言われたことをそのまま採用した。そうか、私にはできないんだな。そう自分に烙印を押して、やる気も失い、投げやりな気持ちのまま成長していった。

言い返せなかった自分を責める気持ちになったこともある。自分が言い返さなかったからいけないのだと。

だけど、今は違う。言い返すことのできなかった自分に、『こんな辛い思いさせてごめんね。ひとりで苦しかったよね。誰も助けてくれなくて怖かったよね。もう大丈夫だよ。もう救われてるんだよ。』そんな言葉をかけてあげられるようになった。

そうしたら、少しずつ言いたいことが言えるようになってきた。まだまだ道半ばだけど。

 

自分だけは絶対的な自分の味方になる。

自分のなかでだけは、自分を弱者のまま終わらせない。

スーパーヒーローにだってなんだってなれる。

私たちは何にだってなれるんだよ。

自分だけは自分の夢を諦めない。

本当にそれでいいと思ってるのか、自分に問い続ける。

前世の焼き増しなんじゃないか、疑う目をもつ。

自分以外の人間が誰もいないとしたら、それでもしたいことは何なのか、想像してみる。

その時は、スーパーヒーローにはなれないし、バンドだってできない。団体競技は無理だし、恋も結婚もできない。レストランもラーメン屋も喫茶店もやる意味ない。誰もいないから。

そんななかで何をやるんだろう、自分は。

絵を描いたり、音楽を聴いたり、物を作ったり、本を読んだり、海で泳いだり、山を登ったり、自分が食べるためだけの料理をしたり、お菓子を作ったり、踊ったり、歌うことはできるか。

でも、やっぱりどれもこれも自分だけだとしたら味気ないなぁ〜。そこには、誰かと共感し合う歓びもなければ、腹を立ててケンカすることもないし、あらゆる感情を体験することもできない。感情って厄介だと思ってたけど、こんな想像をしてみると、とっても大事だったんだってわかる。

誰かのことを''この人おもしろいな、''なんて思う時は大抵その人らしい?感情表現を見せてもらった時って気がする。表現っていうのもおかしいか。感情が現れてる時っていいんだよなぁ〜。

 

いつの間にか、本音にしか共鳴できなくなっていた。相手の本音とか本心とは響き合うから、相手が感情をあらわにした時、それを自分に見せてくれた時は、勝手に自分の内側から出てくるものがある。だけどそうじゃない場合、心は反応せず、大抵ただの受け応えになってしまう。何を言ったらいいか分からないのだ。

けれど、私が勇気を出して本音を言う側の時に、同じことが起こるかというとそんなことはない。本音×本音もあれば、本音×理性もある。私には理性が欠如しているのかもしれない。

今の私は普段から理性はほぼ取っ払て本音で生きているため、そういうことになるのだろう。

変わったんだと思う。私は変わったのだろう。なりたい自分に近づくために、ある時から自分の力で立ち上がったんだ、きっと。

誰に褒められずとも、傷つくことを恐れながらも、愛したいように愛しながら生きてきたんだ。

それだけは自分のためにいつも忘れずにいよう。

そしてこれからは、こんな私のまま溺愛されて生きていこう。

それが本音だ。

 

 

 

 

 

 

強い眼差しで