シュリ日和

まいにちに生きる

魔法的テレポーテーション




明日の新月の影響で、朝から頭痛に苦しむ。

私はいつも満月は元気で、新月はブルー。これまで新月がなぜブルーな気分なのかを深掘りすることなくきたが、今回ちゃんと調べてみた。月の満ち欠けが、海の満潮干潮と深い繋がりがあるように、満月は拡張のエネルギーで、新月は引くエネルギーらしい。満月時に頭痛になる人は、脳の血管が拡張することによる、偏頭痛の症状が出ていて、新月時に頭痛になる人は、脳の血管が収縮することによる、緊張性頭痛になるという。…知らなかった。私は引くエネルギーの影響を強く受けていたんだなぁ。ブルーな気分も、エネルギーが枯渇することによる虚無状態によるもののよう。理由を知って安心した。

私は与えることは得意なのだが、受け取ることは苦手。これも、満月新月と連動していたのではないか?という、大事な気づきが起きた。満月のエネルギー100状態の時は、元気のお裾分けって感じで、人に対して与えたい欲が高まり、衝動のままに行動もするのに対して、新月のエネルギー0状態の時は、人から元気を分けてもらうのではなく、0でも頑張って与えようとしてきたことに気づいた。常に与え続けていてはバランスが悪い。与えることは受け取ること。全ては対になっているのだから、与えたり、受け取ったり(助けたり、助けられたり)で、バランスが取れる。それは自然のリズムと同調するということだ。フラの先生が、ハヌ(息を吸う)ハー(息を吐く)という、ハワイの呼吸を大事にすることを教えてくれるのだが※《ハワイ語で「呼吸、息を吐く」を「ハー(Hā)」といいます。マナ(超自然的な力、奇跡の力)が宿る息を神聖視するハワイアンは、「ハー」は口から出る「スピリット」であるともいいます》やっぱり自然の姿に学ぶべき大切な真理がある。素晴らしい気づきに感謝だ。


タイトルの魔法的テレポーテーションとは、私の敬愛する、小沢健二の2020年3月~予定されていたライブツアー名。コロナの影響で延期になり、2年の時を経て、2022年6月~'' So kakkoii 宇宙show "と題してツアーが始まる。先日、このツアーのチケット発売日にたまたまTwitterで知り、なんと流れでチケットが入手できた。びっくり。しかも、ツアー初日6/3の横浜のチケットだ。2年の空白を、時空を超えて魔法的テレポーテーションを果たした私たちが一体その瞬間どこにいるのか?想像するだけで、めっちゃワクワクドキドキする。今を生きるオザケンのいる世界線に一瞬でも共にいることができたら、オザケンを知った10代の頃の私も共にそこに重なるのではないか?という、淡い期待も寄せている。

私たちはこれから、魔法を自由自在に扱ってこの世界を飛び回るのだ。魔法使いの先生に習える絶好の機会を得たことが、嬉しい。


6月は動きのある月になりそう。

楽しい予感に溢れている。


私はもう、前しか向かない。








光の環


いま感じてること




風が爽やかだ。

今日からまたエネルギーが切り替わったように思う。渦の真ん中、流れに影響を受けない真空のような場所に、ぽつんと取り残されたような感覚。昨日とはまるで違う。

昨日は、上野の不忍池に白龍が封印されてるなんて情報を目にしてしまったがために、自分の目で確認したく、現地へと向かった。上野は父が仕事の拠点にしていたこともあり、子どもの頃から行く機会があり、思い出もある土地だ。昔から感じていた、上野に対する印象は、暗さと重さ。東京のお花見の名所という華やかなイメージとはまるで違う。というより、お花見(桜)が華やかというのも、表向きの片面の持つイメージなだけで、実態は、梶井基次郎桜の樹の下には死体が埋まっている、に象徴される、桜が持ち合わせている裏の顔あってこその美しさなんじゃないだろうか、なんてことを今更思ったりした。人間は、美しいものに惹かれながら、その本質的な理由にはなかなか気づかないものだ。何故、美しいものに惹かれるのか、を。

不忍池に着いたら日曜日ということもあり、人で賑わっていた。夏に満開になる蓮はまだ成長途中で、葉も疎らな状況だった。それでも、水面はほぼ植物に覆われていて、池の中が一体どんな状態なのかは、まったく見通せない。暫くじっと眺めてみた。そして、想像する。''この池の底に大きな大きな白龍が眠らされているのかもしれない、''と。何故か涙が溢れてきた。自由を封印されてきた存在と同調する。私が子どもの頃に感じた、上野の地に対するあの暗く重い印象の理由がここにある気がしてくる。綿あめを買ってもらい、ウルトラマンのお面を被っていた無邪気な子ども時代の自分が、無意識に闇のエネルギーを受け取ってしまっていたのかもしれないと思ったら、子ども時代の自分のことがひどく可哀想になった。そういうエネルギーの中で育ってきたのかと思うと、本当に悲しくなった。それはきっと、私だけの話ではない。きっと同じような体質の人はみんな受け取ってしまっていたのだと思う。目に見えないエネルギーによって、人生左右されてきた人は多いだろう。

なんか暗い話になってしまったが、来月夏至の日に、不忍池の白龍解放ワークとやらを霊能力をつかえる人が企画してるみたいなので、それに期待したい。明るいイメージは持てている。

私なりに、小さな祈りだけ捧げてきた。今までご苦労さまでした、と。これからは共に自由に飛び回ってこの世を遊び尽くしましょう!と。

とにかく、しあわせ慣れしていないのだ。苦しかった輪廻が長すぎるのだ。今感じている変化の前触れとも言える静けさや心の揺らぎは、未知なるしあわせという扉の前に立っている証拠だろう。この心許ない感情から離れることなく、少しずつ、少しずつ、しあわせというものの方に、心と身体を馴染ませていきたい。日々、ほんの僅かずつでも、新しい扉の向こうの景色へと、歩みを進めていきたい。








太陽の方へ


メッセージ




過去と未来が交差する

一点で届け合う

君との光の交信








一点という今

刹那のとき








何度も何度も

すれ違っては

お互いを感じ合い

触れ合い

別れゆく








繰り返される

別れが

僕らを鍛え

より一層

愛を深める








すべてを思い出しながら

新たに創り上げていく

この幻想世界と

真の現実世界の間にある

美しきシステム








僕らの冒険は

いつでも愛に

見守られつづけている










ずっと見守られてきた✩✩


愛がとまらない




青と赤の二対の龍が螺旋状に絡み合い、上へ上へと昇って行く姿が脳裏に浮かんだ。その龍たちの間を白い龍が真っ直ぐに、下へ下へともの凄いスピードで突き進んでいる。これは、人間と神の姿だ。人間は二対一神。一人では完全な力を発揮しきれない。何故なら、人間界は相対性の世界であり、他者を通して自分を知る(見る)仕組みが前提としてあるからだ。例えば、一人で偉業を達成してる人でも、その蔭では、その人を支えている存在がいるものだ。男でも女でも(同性でも)、どちらが前に出ていようと、支えあってこそ、本来の力を発揮できる。二対で力を合わせ上へ上へ昇っていく赤と青の龍(人間)そのサポートをするかのように、間でエネルギーを送り続けている力強い白龍(神)。

神は常に、ありとあらゆる物に姿を変えて、私たちの間に存在している。ある時は、太陽として、ある時は風として、ある時は滝として、ある時は木として、ある時は鳥として、、ある時は、と言っているけれど、要は、その時々にそこに神を感じ取る心があるかどうか、ということだ。

常に神を感じ取れる心の状態で生きていることは、この世界では易くない。安定を保つことは至難の業だ。瞑想が推奨されるのは、身体と意識と自然とが一体となる感覚を味わうことで、自分という幻影から解き放たれ、本来の自分(魂としての存在)というものに立ち帰れるのだと思う。

私は長らく、魂とエゴという視点で人間を観察してきた。魂を活かして生きることを目指すために、エゴの声をよく聞いてあげ、すぐに暴走したがるエゴを、あやし、宥め、それをしながら、肉体を持った魂として生きることが大事だと。だけど、もうその考えも過ぎ去った。一度、魂からも解放される必要があることに気づいたのだ。魂に残り続けてきた不要なものから、完全に解放される必要がある。この世界を生きながら、相対視点から抜け、全体視点で物事を捉えなければならない。つまり、エゴこそを大切にしようと思ったのだ。エゴの声を全面的に採用してみる。悪いと思ってしまう思考を、あり!にする。好きにやりたい!という希望に応え、好きにやらせる。実際やった。(コスプレとか笑)めちゃくちゃ満足。気が済むまでやったら、なんか今ではもうコスプレしたいなんて気持ちは消えた。一度やらせるしかない。または、その思考を許可するしかない。エゴは幻影かもしれないけれど、この世界の創造主は結局は神様なのだ。なんでもありをやらせてくれるために用意された世界で、我慢させてる場合じゃない。そんな事やってるから、他者に自分を認めてもらおうと外に外に意識が向く。エゴの責任を他人にとってもらうなんて、擬似体験の生み出した擬似満足でしかない。しかも、他人を巻き込んで。全部で私という存在だ。善も悪もほんとは無いけど、善や悪と見える(思える)ものを全部生きてこそ、心は安定する。許せばいい。どんなものも、ここにあるのに、ないことにはできない。魂はそうすることで解放される。

もちろん、この考えはあくまでも私から出てきたもので、すべての人に当てはまる訳では無いので、ご了承ください。

すべての人に当てはまるものなんて、私たちが愛であること以外にあるのだろうか?

最近ではそう思う。

ひとりひとりが違う。その人が感じてることが真実。なんか自信もってそう言えるようになってきた。

だから、私が感じてることが私の真実。誰がなんと言おうと、揺らがない。自分しか知り得ない。

朝から伝えたい想いがあふれてきたことが、嬉しい。






そして、人は花に帰ってくる

種まき




たとえば、ある日のこと、星に願う。

お星様この願いを叶えてください!と。その瞬間、自分ではわからないが、願いは叶えられるために動きだしている。そしてそんな願いという種を自分で撒いたことも忘れた頃に、ある日ぴょこんと願いの種が芽を出す時が来る。草花の種が風に乗って運ばれ、辿り着いた地で芽を出すように、種を撒けば勝手に芽は出るのだ。それが自分の真心から出た願いであるなら、かならず。もしも芽が出ない時は、自分で種の発芽能力に、呪いのような負のエネルギーを与えてしまった時だと思う。願っておきながら、やはり叶っては困る、という相反する思いが生まれてしまうと、その思いにより芽を殺してしまう。願っておきながら叶わせない、そんな自作自演を繰り返してきている。表では、こうなりたい!と言いながら、裏では、なりたくない!と叫んでる。つまり、ひとり綱引き状態。綱を持つ二人の自分(魂とエゴ)が、お互いに必死に引っ張りあっているのだ。魂は愛の元に願いを叶えようと、エゴは恐れの元に叶えないように、と。これでは、永遠に決着がつかない。決着がつかない間は、何も変わらない。変化無し。もの凄いエネルギーを使ってるにもかかわらず、常にゼロポイント。これを大きな視点で客観的に眺めると、なんか笑えてくる。遊んでるんだなぁ〜…としか見えないが、やってる本人は真剣そのもの。ゼロを保つためにエネルギーを使い続けているわけだから、自分に優しいとは言い難い。よもや、これをわかってて、やりたくてやってます!という人間がいるとしたら、それはそれで面白いのかもね?と言えなくもないが、そんな遊び方、私はしたくないから理解はできないなぁ。私は思い切って勇気を出し、愛に全面降伏して今がある。

生まれてこの方、これほどまでに愛と切り離されて生きてきた私たちにとって、しあわせになりたいという願い=愛を信じきることは、恐ろしくもあるのはわかる。それはまるで、これまで生きてきた自分もろとも消滅してしまうのではないだろうか?という程の恐怖だろう。実際、消滅するのだ。愛ではなかった自分は消えて無くなる。無くなると言っても、死ぬ(肉体の死)わけではないし、本来の愛そのものである自分に統合されるだけだから、これほど安心なこともない。だけど、人間のそういった複雑なシステムに自分で気づくには、常に意識的に生きるしか手立てが無い。絶え間なく押し寄せる情報の波のなかで、何かがおかしい、という心センサーが発動したのなら、センサーが反応した謎を解き明かす行動(自分の意思で信じるものを決めるなど)を自ら起こすしかないのだ。誰かが自分の代わりにやってくれることはない。行動をしていない人は、もはや、その人自体が、自分が無意識に信じた情報そのもの、情報というエネルギー体でしかない。魂は眠らされたまま、情報に乗っ取られてる体が日々動き回っている状態。まるでゾンビだ。

自分という命を生きている人の目は輝いているし、声は通っている。本能で感知できる。この人を信用してみよう!と思う人を見つけて、その人に、ありがとうございます!と言うような行動を起こし始めた人は増えてきているとは思う。だけど、もう一歩先、ありがとうございます!と思えるものを誰かから受け取ったのなら、今度は自分が誰かから、ありがとうございます!と言われるような行動を起こすことが、大事だと私は考える。何故なら、それをしないと循環しないからだ。教わったことを活かすことで、循環が興る。愛の輪が拡大する。もらうばかりじゃなく、大事なことを教わったのなら、今度は自分の行いで誰かが大事なことを学べるような行動をすることで、最初に自分に大事なことを教えてくれた人と自分は同じことをした事になる。それをひとりひとりがやっていったら、気持ちのいい風が吹き抜けると思う。この考えは、先人がすでに私とは違う言葉で与えてくれている。『いい情報を得たら、ほかの人にも教えてあげなさい。』と。


最後に、今日浮かんだ言葉を遺したい。



**



どんなに深い悲しみを抱えていても、それを人には微塵も感じさせずに笑う人の大きな笑顔だけがもつ偉大な力というものがある。

それは確実に存在の光として伝わる。

真っ直ぐに心へと飛び込んでくる。

動かす。

引き出す。

響き合う。

そのことで、自分もその力の種を持っていたことを知る。









ハート発見♡






おめでとう




16日の蠍座満月皆既月食を境に、月の時代が完全に終焉を迎えた。もちろんこれは、私の感覚のお話。

月に惹かれて、月に魅せられて、月に翻弄され、月に壊されつづけた夢を、太陽が迎えに来た時代の幕開け。

もう、何もかも体感が早すぎて、言葉が追いつかない。龍だとか、鳳凰だとか、麒麟だとか、天使も、妖精も、ユニコーンも、ペガサスも、もっと色んな空想上の生き物全員総動員で、天界から私たちを迎えに来てるかのよう。小鳥も猫も犬も、人間を癒すために存在してきてくれた生き物たちとアセンデッドマスターは、常に自分と共にいた。ずっと見守りつづけてきてくれた。そのことが本当に本当に、今ならよくわかる。

一体何のことですか?って思われてるの承知で続けるけど、古い魂の傷は、月が愛の元へと連れて帰ってくれたのだ。空の彼方へと。太陽と共に目覚めた新しい魂が自由に飛び回れる世界を、やっと、やっと生きられる時が来た。私はこの喜びを自分が創造した世界に『おめでとう』というひと言で表現した。まずは自分のために。そして、自分のなかにいるすべての人のために。こんなことを言うと、スピリチュアルにカテゴライズされてしまうだろうか?スピリチュアルという分野があることへの違和感。私たちは、スピリットが肉体を持って存在しているだけだというのに、生まれた時からこの世でいちばんのクソゲーに強制参加させられてきただけなのに、、。仮想現実、幻想世界、もう終わったよ。


言葉が遅くて、重くて、限界。

私は裸で海に飛び込みたいのだ。まっさらな自分。生まれ変わった自分を大きな海で自由に泳がせてあげたい。楽園に生きる自分と共に生きたい。


サンボマスターの『世界はそれを愛と呼ぶんだぜ』の歌詞を載せて今日の記事は終わりたい。


これまでの世界にも、希望の歌があってよかった。

本当によかった。



**



'' 世界はそれを愛と呼ぶんだぜ ''


涙の中にかすかな灯りがともったら 

君の目の前であたためてた事話すのさ 

それでも僕等の声が乾いてゆくだけなら 

朝が来るまで せめて誰かと歌いたいんだ 


昨日のあなたが偽だと言うなら 

昨日の景色を捨てちまうだけだ


新しい日々をつなぐのは 

新しい君と僕なのさ

僕等なぜか確かめ合う 

世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ 

心の声をつなぐのが 

これ程怖いモノだとは 

君と僕が声を合わす 

今までの過去なんて

なかったかのように 歌い出すんだ 


僕等はいずれ誰かを疑っちまうから 

せめて今だけ美しい歌を歌うのさ

悲しい言葉では何も変わらないんだぜ

奴らが何をしたっていうんだ


昨日のあなたが裏切りの人なら 

昨日の景色を忘れちまうだけだ 


新しい日々を変えるのは 

いじらしい程の愛なのさ 

僕等それを確かめ合う 

世界じゃそれも愛と呼ぶんだぜ

心の声をつなぐのが

これ程怖いモノだとは 

僕等なぜか声を合わす 

今までの過去なんてなかったかのように 

歌い出すんだぜ 


愛と平和 

愛と平和 

愛と平和 

悲しみで花が咲くものか!


新しい日々の僕達は 

高なる予感がしてるのさ 

君と僕が夢を叫ぶ 

世界はそれを待っているんだぜ 

あなたのために歌うのが

これ程怖いモノだとは 

だけど僕等確かめ合う 

今までの過去なんて

なかったかのように

悲しみの夜なんて

なかったかのように 

歌い出すんだぜ 




2022年5月 

本当の愛と平和のはじまりの歌








おかえり 春

Jupiter




昨日、木星牡羊座に入ったタイミングで、久しぶりにYouTubeにショート動画をアップした。鳴り物入りで始めたばかりに、途中で迷走し、一度はチャンネルごと全消ししようとしたYouTubeだったが、密かに温めていた''一刀入魂''シリーズ企画の第一弾!『ありがとう』を軽い気持ちで投稿してみた。

ありがとうと言ったら、誰もが知る高波動言霊の上位に君臨する、最強パワーワード。だったからか、なんと、現時点で800回以上も視聴されている。ビックリ仰天!

4月以降、自分の内面を整えることに、ほぼすべての時間とエネルギーを使ってきたことが、もしかしたら今回の事態に影響を与えたのかも知れない。

最近、フラ(ダンス)の自主トレと、公園で詰んだお花(雑草のような)で小さな花束を作るという、新たな生命活動を開始した。毎日続けている。フラからは、健全な精神を心と身体の両方で学んでいるし、何より自然に笑顔が出ることが嬉しくて堪らない。フラを踊っていると、踊る体があることへの感謝の気持ちが全身から溢れてくる。それは、自然に対するリスペクトであり、自分自身に対するリスペクトでもある。今を生きている自分は、大きなものに生かされていると同時に、自分が生かしてもいる。頑張って生きている自分に対する感謝。辛いことも苦しいことも何度も何度も乗り越えては、誰に理解されずとも、明るい未来という夢を真っ直ぐに見つめて、屈せずに生きている自分という健気な存在に対する感謝。フラにはその想いを引き出すパワーがある。生きていることの喜びそのものが実感できるのだ。

そして、小さな花束づくりは、クリエイティビティを高めるために取り組んでいる。着想は、フラのレイ。プルメリアの首飾りを思い浮かべる人もいるだろう。

お花を習うのは敷居も高いし、お金もかかるし、誰かに習うことを選ぶと、どうしても気をつかってしまうから、自由度が下がる。その点、雑草の花束づくりなら、勝手気ままで自由だし、昔から好きだった草花を調べたりが楽しいし、それこそ、植物と対話してるような気持ちになれたり、ささやかな楽しみとして続けられそうなところが気に入っている。昔から、草花をちょこっと詰んできて家に飾ることはしていたが、花と草を束ねる発想はこれまで無く、花の色と、草のカタチと、どれとどれを組み合わせたら可愛いかな?なんて考えるのは、すごく楽しくて豊かな時間だ。ターシャ・テューダーに憧れている私にとって、ほんの少し、ターシャの世界を垣間見ているような気分になれることは、自己満足には十分すぎる。出会えた好きなことを、純粋に楽しもうと思う。


今日は色々といい事が続いたが、いちばんは、駅のホームで荒川良々を見かけたこと。個性派俳優だ。最近では、YouTubeで一人飲み動画を定期的にアップしており、ファンも多い。荒川良々と言えば、クドカンのドラマの常連キャストのひとりだが、私の大好きな『うぬぼれ刑事』での、長瀬との絡みは最高だった。いつも大笑いさせてもらっていた。だから、今日電車から降りる時に、目の前にいた彼と目が合った時、『いつも(笑わせてくれて)ありがとうございます。』的な心の動きにより、思わずお辞儀をしそうになってしまったが、やっぱりそれってこれまでの世界線で言ったら、かなりおかしいことかも、、と瞬時に冷静さを取り戻し、やめた。見かけただけでラッキーだった。


12星座始まりの牡羊座木星入り。始まりと拡大のテーマが動き出している予感を感じている。








写真難しかった・・・