シュリ日和

まいにちに生きる

愛がとまらない




青と赤の二対の龍が螺旋状に絡み合い、上へ上へと昇って行く姿が脳裏に浮かんだ。その龍たちの間を白い龍が真っ直ぐに、下へ下へともの凄いスピードで突き進んでいる。これは、人間と神の姿だ。人間は二対一神。一人では完全な力を発揮しきれない。何故なら、人間界は相対性の世界であり、他者を通して自分を知る(見る)仕組みが前提としてあるからだ。例えば、一人で偉業を達成してる人でも、その蔭では、その人を支えている存在がいるものだ。男でも女でも(同性でも)、どちらが前に出ていようと、支えあってこそ、本来の力を発揮できる。二対で力を合わせ上へ上へ昇っていく赤と青の龍(人間)そのサポートをするかのように、間でエネルギーを送り続けている力強い白龍(神)。

神は常に、ありとあらゆる物に姿を変えて、私たちの間に存在している。ある時は、太陽として、ある時は風として、ある時は滝として、ある時は木として、ある時は鳥として、、ある時は、と言っているけれど、要は、その時々にそこに神を感じ取る心があるかどうか、ということだ。

常に神を感じ取れる心の状態で生きていることは、この世界では易くない。安定を保つことは至難の業だ。瞑想が推奨されるのは、身体と意識と自然とが一体となる感覚を味わうことで、自分という幻影から解き放たれ、本来の自分(魂としての存在)というものに立ち帰れるのだと思う。

私は長らく、魂とエゴという視点で人間を観察してきた。魂を活かして生きることを目指すために、エゴの声をよく聞いてあげ、すぐに暴走したがるエゴを、あやし、宥め、それをしながら、肉体を持った魂として生きることが大事だと。だけど、もうその考えも過ぎ去った。一度、魂からも解放される必要があることに気づいたのだ。魂に残り続けてきた不要なものから、完全に解放される必要がある。この世界を生きながら、相対視点から抜け、全体視点で物事を捉えなければならない。つまり、エゴこそを大切にしようと思ったのだ。エゴの声を全面的に採用してみる。悪いと思ってしまう思考を、あり!にする。好きにやりたい!という希望に応え、好きにやらせる。実際やった。(コスプレとか笑)めちゃくちゃ満足。気が済むまでやったら、なんか今ではもうコスプレしたいなんて気持ちは消えた。一度やらせるしかない。または、その思考を許可するしかない。エゴは幻影かもしれないけれど、この世界の創造主は結局は神様なのだ。なんでもありをやらせてくれるために用意された世界で、我慢させてる場合じゃない。そんな事やってるから、他者に自分を認めてもらおうと外に外に意識が向く。エゴの責任を他人にとってもらうなんて、擬似体験の生み出した擬似満足でしかない。しかも、他人を巻き込んで。全部で私という存在だ。善も悪もほんとは無いけど、善や悪と見える(思える)ものを全部生きてこそ、心は安定する。許せばいい。どんなものも、ここにあるのに、ないことにはできない。魂はそうすることで解放される。

もちろん、この考えはあくまでも私から出てきたもので、すべての人に当てはまる訳では無いので、ご了承ください。

すべての人に当てはまるものなんて、私たちが愛であること以外にあるのだろうか?

最近ではそう思う。

ひとりひとりが違う。その人が感じてることが真実。なんか自信もってそう言えるようになってきた。

だから、私が感じてることが私の真実。誰がなんと言おうと、揺らがない。自分しか知り得ない。

朝から伝えたい想いがあふれてきたことが、嬉しい。






そして、人は花に帰ってくる