シュリ日和

まいにちに生きる

人生に足りてないものは?




昨日は日曜日。

朝からハワイと繋がる。最高の一日のはじまり。前世リーディング第二弾を受ける。・・と言っても、今回は前回の前世リーディングで、私が元々もっている(前世からある)楽しさやワクワクを元にしたパワフルな女性性を活かしていくエネルギーが視えるとのお告げから、そのイメージを現実世界にカタチにしていく、男性性の活かし方について視てもらうことに。

今の私の女性性のカラーは、ジューシーバレンシアオレンジで、男性性のカラーは、濃いブルー。どちらも透明度が高いらしい。ただのオレンジではなく、ジューシーバレンシアオレンジなんて表現や、透明度が高いなんて言われると、それだけで嬉しくなった。

男性性が濃いブルーなのは、やっぱりな、って感じ。インディゴの魂の色だ。私はインディゴの魂の記憶が深い。恐らく、過去世において、男を生きた時代も、女を生きた時代も、男性性優位で生きてきたのだろう。その男性性とは、古い価値観に基づく責任感優位の生き方。国や家族や周りの人のため、責務を全うすることが自分の使命であり、天命だった時代。どんなに命をかけて生きようと、本当に大切な人と愛し合ったり、守り抜くことはできずに虚しさと共に死んでいった記憶を、潜在意識にもったまま転生を繰り返したのであろう。私だけでなく、そんな記憶を持つ人たちが、たったひとつの悲願達成のために、この時代に生まれ変わってきている。そう感じている。(もしかして、サラッと凄い重要な話してない?)

そうそう、話を戻すと、私は今生ちゃんと、ジューシーバレンシアオレンジ(快活で明朗な女性性)と、透明な濃いブルー(新しい感覚のよい男性性)を、感じてることと考えてることの両方を使っていく意思を持ち、それらをバランスよく機能させられる力を持って生まれてきていると、はっきり言ってもらえた。ただ、古い価値観の濃いブルー(男性性)が、時々、白と黒と特に紫というカラーに引っ張られ、過去世からの影響を受ける時があり、そうなってる時は、ブルーの色が濁って重くなるらしい。そういう時は、ジューシーバレンシアオレンジに意識を戻すのが良いらしい。う〜む、、わかりみ。

私がこれほどまでにカタチにする行動をとるのに尻込みする理由は、紫の過去世の影響を多大に受けてると思われる。成功しないならやる意味も価値もない!というような、もう要らない価値観の名残りが強すぎるのだろう。だって、女性性はほぼ封印状態だったわけだから、その暴君みたいな、特攻隊長みたいな男性性はひとりで死に向かって突っ込んで死ぬしかなかったのだ。

散々巷で、これからは女性性の時代って言われてるわけだから、行動の原動力として、ジューシーバレンシアオレンジを活かすのがポイントになる。透明な濃いブルーでいられるように男性性を整えながら、バランスをとっていきたい。男性性と女性性が手を取り合うこと自体が正に初挑戦なのだ。挑み甲斐のあるビッグチャレンジとしか言いようがない。

とまあ、ここまでは私個人の話な訳だが、私は正直言うとその先を狙ってる。私が生きているこの世界を、明るく平和で愛に満ちたものにするには、人間である自分にすべきミッションがある。そう、男と女(男性性と女性性)の和解。この世界が本来の愛の循環がなされるためには、男と女の和解が不可欠なのだ。そこに関わっていけたらと考えている。

リーダーさんにも言われたが、魂はやりたいことを決めて生まれてきてるから、自分で見つけていけるし、やるって。ただそれは、成功するとかしないとかは関係なくて、やりたいからやるってことが、魂の目的らしい。そうだよね、きっと。そこはブレずにいなくちゃな。私の尊敬する人がいつも言ってる、正しいより楽しい!をどんな時でも大事にして笑うことができれば、大丈夫な気がしている。いつの間にか、問題が問題じゃなくなっていたという、高度な解決策が未来を明るく照らすだろう。男と女の和解の鍵は、一緒にこの宇宙船地球号を本気で楽しむことだ


そう、人生に足りてないものは、あそびの要素だったんだ。(唐突感w)


明日は夏至。そして、朱里日記のブログ開始から3年。

大きな節目に差し掛かっている。







長い夜は明ける

ベイキング




最近は気持ちが不安定。梅雨だからかな。いや、ずーっと安定ってことは、まだこの環境下においてほぼ不可能だろう。だから、不安定が通常運転。最近なんてやや広範囲な括りで言っちゃったけど、ほんとは毎瞬のこと。私はマジでバカみたいに毎日真剣に生きてると思う。(全くそう見えないだろうけど。笑)

ずっと長い間、生きることは修行で挑戦だと心得てきたから、その世界線から脱線した今、新しいレールに慣れるにはある程度の時間がかかっても当たり前なんだよな、、なんて自分に言い聞かせながら、『大丈夫。大丈夫。絶対なんとかなるから。』そんな言葉を呪文のように唱える日々だ。しかも、このレールは期間限定。ひとりで歩く最後の道。

そして、いよいよお金が底をつきそうな現状までもついてきている。続いてきたラッキーもここまでか?!といった窮地の状況。落ちるとこまで落ちたら後は這い上がるか、野垂れ死ぬか、究極どっちかだけど、こんなこと書きながら、カフェで珈琲飲んでるんだから、多分私は自分が仕組んできた人生のシナリオを信じきってるんだよなぁ〜。

いち早く地球ゲームを攻略した人たちは、どんどん行動に行動を積み重ね、富を循環させている。ほんとにそういう人たちって、凄いと思う。自分を信じる気持ちが強く機能している時、恐らく高次元とか宇宙とか神さまとか、呼び方はなんでもいいけど、錬金術を発動させられるのだろう。

私もそれら宇宙の原理と呼べるような大枠は理解した。動き出す準備はできている。でも、それよりも何よりも、シナリオが大事。自分が面白くなきゃ、この時代を選んで、ここに生まれて、自分の人生を生きる甲斐がないってもんだ。毎日の気づきの波にエアサーフィン決め込んで、『今日もいい波きたな♡』なんて喜んでんだから、シアワセな人だと思う。

経験こそ財産。お金との関わり方だけが自分に馴染んでないから、未だに謎だけど、ずっとこのブログに書いてきたことはブレてない。お金が引き寄せられる前に、できるだけ経験という財産は増やしておきたい。それをこの先、生きる糧にしていくのだから。

タイトルのベイキングとは、今ハマってる、イギリスのテレビ番組.ブリティッシュベイクオフ🇬🇧からつけた。ベイキング(お菓子やパン作り)の歴史は奥が深い。私自身、趣味のお菓子作りとの出会いは小4に遡る。7つ上の姉が彼氏にお菓子を作っているところを見て、興味を持った。そして、遠足のおやつに、自分で作った手作りクッキーを持って行ったことがきっかけで、(当時好きだった男の子が『おいしい!』と食べてくれたことが最高に嬉しかったのだ)お菓子作りも好きになった。このことから、人に喜んでもらえることの喜びを体感したのだった。

最近、占星術(主に太陽と月)と人間のはじまりである男と女(陰と陽)の歴史から、私が知りたかったことの点と点が繋がった。人間という生物には本当に興味が尽きない。切ない幼少期の思い出の中に、ほんとうの自分を生きるための鍵が隠されている。健気に無邪気に真っ直ぐに愛されようと振舞った、子ども時代の自分。簡単にわかるわけなかったのだ。自分が知ろうとしない限り。学校も、本当に大事なことは何ひとつ教えてくれない場所だったし。しかも、知ったら知ったで、同時に余計に生きづらくなることがわかってしまう仕組みだったから、なおさら。

話が逸れた。軌道修正。

ベイキングは楽しい。番組に感化されて、人生初となる、キャロットケーキを作った。ニンジン🥕たっぷり、クルミやレーズンの入ったスパイスを効かせた味。クリームチーズフロスティングものせた。思い描いた通りの仕上がりに、感無量。だけど、やっぱりどんなに美味しいものが作れたとしても、それを『おいしい♡』と食べてくれる人の存在がいなければ、味気ない。もっと言えば、一緒にそのおいしさを分かち合うことで、喜びは2倍にも3倍にも大きく膨れ上がる。しあわせの相乗効果だ。

ブリティッシュベイクオフの出場者が、愛の鞭で厳しい意見の多い審査員2人から、たまに極上の賛辞を贈られた時に、本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれるのだが、見ているこちらにも気持ちが伝わってきて、ホロっとさせられる。''よかったね!よかったね!''って、心のなかで私からも『おめでとう』を贈っている。人が嬉しそうにしている姿を見るのが好きだ。それは、自分が自分に体験させてあげたいことなのかもしれない。


雨の土曜日から、晴れの日曜日へ。

夏至の魔法時間へと刻一刻と時は流れてゆく。







どうぞ召し上がれ🥕


誇り




「思い出すと、泣いちゃうの。

    何もかも本当すぎて」






君の大好きな絵本を

僕が『 あれ、いいよね 』

って

言ったあの日

表情も変えずに

ただ小さな声で

『‥うん 』

と頷いた君の

声なき声が

いま、彼方に聴こえた気がした






とても大切な特別な想いほど

言葉にできないところ

僕たちは似てると思う






幼い頃に

祈るように胸に抱いた

ただひとつの燈を

大切に守り抜いてきたこと

もっと誇りに思っていい






あの灯りが

こんなにも頼りない僕たちを

引き合わせてくれたのだろう






消えないように

そぉっと

二人の掌で包んだ

光の温もりが






僕たちと

今も未来も

共に生きるみんなのことも

守り続けてくれるから








I LOVE YOU








命の活かし方




'' ぼけっとしてたら   もう夏だ ''

私の好きなバンドマンの歌の歌詞である。


まずい、このままだと夏になっちまう。ぼけっとするのにすっかり慣れてきた今日この頃。あれ程じっとしてられない人間だと思ってきたのに、まったく正反対に落ち着いている。

先週の土曜日、大好きなカードリーダーさんの主催した占星術のワークショップにZoomで参加した。途中、太陽星座のエレメントごとにグループ分けされて、ワークを行ったのだが、同じ風グループの人たちと気があって、めっちゃ楽しかった。正直、占星術は自分でちょっとかじったことがあったので、基本的な話にはそれほど興味があったわけではなかったのだが、人とのコミュニケーションに飢えている私にとって、たとえ一期一会の出会いであろうと、誰かとコミュニケーションがとれる場には、お金を出したい!という気持ちになった。結果、誰かと気持ちを通わせて、笑って会話ができるということが、どれほど嬉しかったことか。やっぱり、この2年ほどの間に、価値感が大きく変化したことを実感した。もちろん、これは私の話だが、私はもう物欲というものはほとんど無い。正確に言うと、物はあってもなくてもどっちでもいい。買う時の喜びは一瞬のもので、それは過去に経験していて既に記憶にあるから、それを反芻するだけで十分とも思える。だけど、人とコミュニケーションをとることは、どっちでもとは思えない。何故なら、人は(私は)変化し続けているからだ。生きてる間はずっと変化している。今日の私と今日の誰かと、明日の私と明日の誰かとでは、会話の内容も広がりも違うだろう。それをあってもなくても、とは思えない。今回、大好きなリーダーさんの主催した会だったから集まった人も気が合いやすい人が多かったのかもしれないけど、とにかく、心の底から『楽しかったー!!!』と、しばらく嬉しさのパワーで自分の全部が充たされるのを感じられた。そして、もし私が主催するなら、、という構想がどんどん膨らんで、めっちゃ楽しい気分に♪仕事仲間が欲しい。引き寄せの法則に取り組んでるわりに、なかなか集まってこないんだよなぁ〜。でも、現実なんも変化ないわりには、すべてが順調に思えている自分もいる。すでに心に決めてしまった以上、違うことはうまくいかない。それだけは宇宙の法則のような気がしている。話が逸れたが、何に価値を置くかは、これから人それぞれ、かなり変わってくるだろう。私は、人に価値を置きたい。自分の資産を増やすための投資ではなく、人に投資したい。私の好きな諺に、''人間一人は世の宝''というのがある。人間一人は宝なのだ。私には、自分の人生の経験から得た、人の魅力を見抜く審美眼が開眼しているようなので、それがこの先、活かされたらいいなぁ〜と、ふんわり思っている。楽しい妄想力がだいぶついてきたので、せっかくなら、自分がいちばん嬉しい未来を目指したい。自分も人もハッピーで気持ち良い風が吹き抜ける場所に、私自身がなりたい。また近くに、先日の過去世リーディング第二弾の予定が入っているので、何か動き出せたらいいなぁ〜。それに、21日は夏至だ。太陽のパワーが一番高まる時。太陽の時代の始まりの、パワフルな夏至。期待は高まる。

相も変わらずいろんなこと考えてるけど、自分もみんなも元気にしたいんだ。スピリットの世界の楽しさを広めたい。

こんなにもぼーっとしてても、しあわせって感じられてる私は相当恵まれてる。心に描く神さまはずっと優しかった。目に見えない存在に毎日毎日、ありがとうを伝え続ける。そうすると、見えない存在がカタチを持ちはじめ、会話もできるようになる。(ような気がするw)


体調良くて気分もいいって、それだけで奇跡。心から笑っていたい。愛する人の心からの笑顔は、私の心からの笑顔が映し出すと思うから。


健康バンザイ!

ストロベリームーン(可愛い♡)バンザイ!!!








今日もありがとう

わからない





昨日は、小沢健二のライブツアー初日、無事現場で自分の全身で見届けることができた。色々感じたことがあったのだが、一夜明けてしまったら、もう気の利いた感想のひとつも出てこない。頭を空っぽにして、心のなかで歌いながら、踊ったりもしちゃって、本当に楽しい時間を過ごすことができた。天使たちのシーン(いちょう並木のセレナーデも)を歌うなんて、、2022年のライブで聴けたことに個人的に感無量。それらをうまく言葉にはできないけれど、心はとてつもなく大事なものを感じたことだろう。沢山のギフトを受け取ったことだろう。そして、これから先のどこかで、その想いがまた繋がる日が来るのだろう。それだけで十分。オザケンありがとう!


からの今朝。虚無感が半端ない。『生活に帰ろう!』は、オザケンのライブの締めゼリフで有名なのだが、私には今、帰る生活が無い気がして、怖くて怖くてたまらない気持ちになってしまった。理由は分かっている。多分、浮世を捨てたからだ。これまでの世界と、自分との繋がりをどんどん断ち切ってきた結果、今の私は、この現実世界のなかで、宙に浮いている。唯一の救いは、このブログを読んでくれているあなたの存在かも知れない。

この怖さは、自分が行きたい世界に向かうには避けられない。本当にコンフォートゾーンを抜けるには、これまで自分が選んできたことの真逆に一度振り切るしかない。しかない!なんて極端なこと言い出すのも、今の状態が不安定であることの証だ。でも、そうやって自分の意思で決めない限り、現実は動かない。大丈夫。こっちで間違いない!という確信とともに、過去の思考に引っぱられ、何かを考え出すことで、一瞬で不安定に。新しい世界への移行は、きっと簡単な筈なのに、自分が難しくしてしまっている。相当根深い思考の癖なのだろう。ここで大事になってくるのが、やはり、''諦めたらおしまい''のひと言だろう。諦めたい。楽になりたい。と、四六時中囁いてくるエゴの声をどうやって消していくか。思考を自分主体で使うことが出来始めたのは、まだ最近のことなのだ。現実世界という名の幻想世界を生きながら、愛と平和の世界を常に想像することに慣れていないだけ。決めたことを貫く。それだけだけど、それだけがこれ程までに成しがたいとは。誰かに助けて欲しいと、久しぶりに痛切に願ってしまう。色々と世界の裏側を知った以上、心を平和で保つことが、自分のある意味使命なんじゃないかと、強気の姿勢でいたけれど、なんだかとにかく今日は弱気。また明日には変わるかもしれないけれど、こんな日があってもいいんだと、自分を許すことだけはしたいと思う。

弱気な時だけでズルいけど、読んでくれてありがとうございます。いつもより、あなたの存在に救われてる私がいます。


あなたに嬉しいことがいっぱい降り注ぎますよう、祈ります。






空が綺麗だった

surrender




6月がはじまった。

昨日から妙に淋しくて悲しくてどうしようもない心模様。もうすこし丁寧に表現するとしたら、今はそばにいない、代わりのいない誰かを愛おしく想う時、ひとりの寂しさが、心の奥深くに沁みいる。その孤独特有の寂しさはきっと私だけのものではなく、相手と共有しているからこその特別な感情で、その感情から離れずに大切にその一点を見つめ続けていると、シアワセとは、常に心の内にただ在るものだということを思い出せる。

もしも、こんな気持ちを、ずっと感じながら生きられるとしたら、それこそが、私が今ここに生きていることの、これからも生きていくことの希望そのものだなぁ〜と、そんなことを胸のなかで、何度も何度も反芻していた。


シアワセか、不幸か。

それはもう、シアワセしかないのだろう。

だって、何が不幸かと言うとしたら、そんな風に愛おしく想う唯一の存在がいないことだから。そんな存在がいる私は、どんな瞬間もシアワセでしかないのだ。この想いに潔く降参してしまえば、人生のどんな天気の日も、等しく愛でることができるだろう。誰かと共にいようといまいと、孤独には変わりがない。寧ろ、共にいるほど、孤独を突きつけられるだろう。人間として生きている間は、本当にはひとつになることは不可能なのだから。だからこそ、共にいることの尊さというものがあるのだろう。これから先には希望しかない。夢とか使命とか壮大なものを語っている時は、そんな私らしい思想からは、離れている時だったのかもしれないな。それも含めて、どんな状態の自分も、少し俯瞰して優しく見守る気持ちでそばにいてあげれたら、赤ちゃんが思いのままに生きる姿を見て安心するように、心のなかに安心を抱ける気がした。




2022年6月2日 朝

いまの気持ち




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君の思想を

何も語らない

静かな君の眼差しから

推し量る







深淵なる君