シュリ日和

まいにちに生きる

かっこいいおとな



オザケンの''泣いちゃう''という新曲の歌詞の中に''…ちゃんとやれてないんだよなぁ''というフレーズがある。


ちゃんとやれてないかぁ。

確かにな。

おとなとして、子どもたちの前で見せることのできる凛とした背中というものを、果たしてどれくらい自分は意識できているだろうか。

自分のことで精一杯で、全部世の中やウィルスのせいにして、やり過ごすことばかりに必死になってはいないだろうか。


そんなことを思わさせられた。


かっこいいおとなについて、思いを巡らす。


日頃言いたいことはいっぱいあるのに、余計なことを考えてしまい、結局言えないようなことをズバっと言ってくれる人を見つけると、自分の代わりに代弁してもらってるような気になり、心の一部がスカッとする。


はっきり物が言えない理由には、反論された時に受け流せる度量がないことや、誤解されたくない(真意がそのままのカタチで伝わらないことに対する抵抗)という思いや、人の意見も受け止めようとしすぎてしまうことや、そういった諸々があるのだが、結局は、自分の考えに対する絶対的信頼の欠如と、考えが後に変わったり、やっぱり違うな、ってなった時に、それでも堂々と『言ってること変わりました?そうですかね。それがなにか?』なんて涼しい顔で言ってのけられる強さが足りないのが大きいと思う。


『あの時は真剣にそう思ったんです。けれど、いまはこう思うんです。』


そう言えれば、正直だと思う。


でも、真逆かもしれないけど、一度自分が言ったことを曲げない意地みたいなものも、時にはあってもいいかも、とも思う。それって一見頑固なようだが、こちらから相手にわからせに行く場面では必要になることもある気がする。

例えば、ある店が独自の流儀を持っていて、うちの店のやり方が気に入らないなら暖簾はくぐらせない。というような時とか。客に寄せない。貫く姿勢が返って魅力となり、一定のファンを獲得できる上に、変な輩は寄せ付けず、自分も清々しい気持ちで仕事ができるような。


子どもたちに対しても、おとなということを殊更意識することなく、自分流のスタンスで向き合えば、賢い子どもたちは、『おとなも間違えたり、考えが変わったりするんだなぁ。それに、言ってることとやってること違うこともあるなぁ。でも、あのお店のおじさんはちょっと怖そうだけどなんかかっこいいんだよな。まあ、おとなの言うことや、やってることもあんまアテになんないから、自分で物考えよう。』って思ってくれるかも。笑笑


背中を見せるって、別にかっこいい姿ばかりじゃなくて、ダメなとこも、不安なとこも、ありのままをさらけ出すってことかな?って今思った。おとななんだからカッコよくあらねば!そういう意地があってもいいし、おとなだけど弱いのよって人がいてもいいよな。問題は、嘘や言い訳のようなことを無意識にしてしまうことかも知れない。

ちゃんとやれてないのは、要は、情報に振り回されて、自分軸を見失い(元々確立できてない)子どもに寄せたり、取り繕ったり、そんなことしちゃうおとなが増えたってことかな。このご時世、おとなも不安で、きっとギリギリの精神状態の人も多いから、時には子どもに『お母さんめっちゃ不安やねん。〇〇ちゃん助けて〜。』とか言っちゃえば、案外子どもは『よっしゃ!一緒に頑張ろ!』とかならないかな?さらけ出せずに、微妙な空気をばら撒くより健全な気がする。無理してるおとなに子どもが気を使っているケースはとても多い。(これは親子の話でしたね)


わたしはみんなに「大丈夫だよ!」って、言いたいな。未来は自分の創造でつくられていくんだから、今どんなに不安でしんどくても、逃げ出さずに目の前のこととひとつひとつ向き合いながら現実に対処しつつ、頭のなかでは夢のような楽しい世界を想像することを続けていけば、きっと道は拓ける。

どんなときも、夢を見る自由を自分に許し続けること。その先には夢が叶った現実が現われること。

それを信じ続けてみること。



わたしはひとりでもやり続けていきたいと思っている。




f:id:like_nanohana:20210623134803j:plain


ものすごく美味しかったアイス🍨