シュリ日和

まいにちに生きる

愛されていた




半蔵門線の車内で、メトロ文学館を見つけた。

タイトルは''祖母の姿勢''

30年共に暮らした祖母の最期のことばは、『どういたしまして。』の返答を意図して伝えた、「30年間、育ててくれてありがとう。」に対して、『こちらこそ、お世話になりました。』だった。という文章だった。


わぁーっと、涙が込み上げる。

あの短い文字数のなかで、人の胸に響く文章が書ける筆者はもちろんのこと、この方の祖母という人の人間性、姿勢はあまりにも美しい。


電車に乗っているどれだけの人がメトロ文学館を読んでいるだろうか?わたしのように、文章を読んで簡単に感動してしまう人間もいれば、満員電車で息を殺すように身を小さくしている人などが見れば、感動ではなく、怒りを覚えたりするのだろうか。文章はただそこにある。それを見る人間の心の状態によって、引き出される感情は様々なのかもしれない。そんな風に想像してみると、この文章に感動できる自分は、心が安定していると思えたし、生きている環境や状況にも恵まれているようにも思えた。


ひとりの人間が成長していく過程で、どれだけの愛が必要だろう。わたしはこれまで、目の前の人を全身全霊、愛してきただろうか。もし明日死んでしまうとしたら、愛し残してはいないだろうか。やりたいことをやりきれなかったことよりずっと、愛したいように愛せなかった後悔は大きいと思う。


大切な人の生誕祭だったから、そんなことを想っていた。わたしは自分がダメなところを知っているし、ある視点で見たら、ダメのレッテルを貼られても仕方ないところがある。それでも、愛を注ぐことだけは、手抜きせずにやってきた。自分ひとりですべては無理でも、自分の最大値ではやってきた、といつか胸を張って言えるようにと、愛してきた。親の愛情が、子どもが大きな木に育つために欠かせない根の部分の大事な養分になると考えてきたからだ。土台がしっかりしていれば、あとは、どんなに葉が虫に食われようと、大きな木に、小鳥や動物たちが集うように、ちゃんと親以外の生命が、木が枯れてしまわないように、愛を分け与えてくれると思う。愛されて育った実感があれば、どんな荒波に揉まれようと、最終的には大丈夫だろう。わたしはそう信じている。


今日はなんだか涙腺が緩く、不用意にいっぱい泣いた。あれも、それも、みんな愛だったって深く深く思えて泣けた。ありがとうって、心のなかで呟きながら、込み上げる想いに任せて泣き続けた。






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在りし日の