シュリ日和

まいにちに生きる

1月22日




カラオケアプリでユーミンの''守ってあげたい''を歌った。何となく気分だったから。

録音した自分の歌声を聞き直す。…とてもうまいとは言い難い。言い難い分、一生懸命歌ってる感じに胸をうたれる。その一生懸命具合が、まるで運動会で必死に走っても最下位の我が子を、心の中で励ます親の気持ちのよう。この気持ちを実感しながら、自分が親に期待していたものが何だったのか、理解できた気がした。わたしはきっとこんな気持ちで親に見守っていて欲しかったんだろうなぁ。助けてはもらえないけれど、心の中で励ますような気持ちでただそっと見守っていてくれることを望んだのだろう。けれど、皮肉なことに、もしも、そういう優しいものを感じて育っていたとしたら、きっと今のわたしはいない。傷つくことと、自分でしあわせを見出すこととは、セットだったのかも知れない。


守ってあげたいの歌詞のなかに、~日暮れまで土手に座りレンゲを編んだ~というフレーズがある。娘がまだ小学3.4年生の頃、広々とした芝生の公園で一緒にレンゲを編んだことを思い出す。編み上がったレンゲの花冠を頭に乗せて写真を撮ったりして遊んだ。私たちが帰る頃、3歳くらいの小さな女の子とお母さんが前から歩いてきて、その女の子が娘が手にしていたレンゲの花冠をじーっと見ていることに気づいた娘が、微笑みながらその子の頭に花冠をそっと乗せてあげた。その時の女の子のはっとした表情と、振り返って私たちをずっと見ていた情景が、美しすぎて忘れられない。

あの子はいつか思い出すのだろうか?この時のことを。それとも、綺麗に忘れてもう二度と思い出すことなどないのだろうか?あの場に立ち会えた私は間違いなく幸せ者だ。そして、ずっと忘れずにいたい美しい想い出があることは、これからも続いていく人生の希望の光だ。


最近また動画撮影を毎日している。今日のテーマは、''存在給''について。

幻想の世界を脱したひとりひとりが、自分の才能を開花させ、自らの存在を輝かせて生きられるようになったら、ミラクルなカタチで、存在給が支払われるようにならないだろうか?という、私から生まれた創造の話。創造とは言ったものの、すでにこの世界でそれを実現している人もいる。これまでの世界でそれを実現させたということは、全くもって凄いとしか言いようがない。生き様なんだよなぁ〜。自分は生きてやったぜ!という手応えを感じてから死にたい。ただ、あくまでも、女としてそれを実現するには、どうしたらいいかを考えつづけている。


娘の話を出したから続ける。私は過去に、彼女と殺し合いの喧嘩を幾度となく繰り返してきた。娘は、とにかくその時の自分の気分次第で、理不尽な言いがかりをつけては、負のオーラを全開で空間に撒き散らし、喧嘩を売る。喧嘩を売るのはいつも娘の方で、私は買う側だった。買わずに交わそうとしても、絶対に逃さないと言わんばかりにロックオンされる。私は機嫌が悪い時はほぼ皆無だが、売られた喧嘩にはそれ相応のエネルギーが出てくる。『てめぇー、コノヤロー!』なんて当たり前で、取っ組みあって睨み合ってぶつかり合って、最後に『死ね!』の捨て台詞と共に彼女の方が家を飛び出して行くことも過去にはあった。

喧嘩の理由はどう考えても理不尽なのだ。イヤホンをすぐに失くす彼女は、私が大事に使っているイヤホンを盗む。明らかに盗んで使ってるのに堂々と盗んでないと言い張る。そう、このやり口は、完全にジャイアンのそれだ。俺の物は俺の物。お前の物も俺の物!ジャイアニズムを遺憾無く発揮してくる彼女の前で、私の固定観念は打ち砕かれた。物を大事に使いなさいの教えを守り、忠実に実行してきても、ある日突然呆気なく奪い去られる。腹が立つ。怒りに塗れる。でもそこで気づく。自分のお金で買った(誰かのお金で買ってもらった)私の物を奪われたから盗みという犯罪のレッテルを貼る。いや、ちょっと待て、この考えは所有の概念だ。自分で働いて苦労して稼いで買った物(誰かが働いて苦労して買ってくれた物)には、所有のエネルギーが強まるのではないか?そのような、超絶大事な気づきに至る。もしもこれが、たとえば、たまたま入ってきた臨時収入で買った物だったら、もしも、誰かがギャンブルで当てた泡銭で買ってもらった物だったら、同じような怒りは湧いてきただろうか?これは、お金に宿るエネルギーについての気づきだ。ハッピーな気持ちで手にしたお金はハッピーの循環をおこす。概念は、所有ではなく共有に拡がる。だから、これからは存在給なのだ!(繋がったー!笑笑)


娘との喧嘩の話に戻る。

振り返ると本当に不思議なんだけど、そこには蟠りといった感情はまったく残っていない。憎しみも恨みも完全に無い。ただその時必要なエネルギーの解放をお互い?にしていただけで、寧ろスッキリ感すらある。そして、先にごめんね、と言ったら、ちゃんとごめんねが返ってきたし(逆もまた)次に顔を合わせた時は、あんな大喧嘩したことなど何処へやら、といった調子で元通りに仲良くできた。私視点からこのことを検証してみると、彼女は自分の気持ちにいつでも正直なだけで、私を信頼しているからこそ、やりたい放題ができるのだ。私はどうしても自分の気持ちを最優先できず(周りに合わせがち)喧嘩を売ってもらわなければ放出することのなかったエネルギーを、彼女の正直さにより、解放させてもらえていたのだと思う。あと、私はそこまで他者に対して信頼できていないのかもしれない…そこも考えさせられた。自分はどんな相手も愛すし、許すし、受け入れると言いながらも、自分からは喧嘩を売れないということは、自分自身を完全には愛し、許し、受け入れていないのかもしれない…そうも感じた。その矛盾は見逃せない。お金のエネルギー同様、人のエネルギーに関しては、正直さが肝心なのかも。自分の内にある、光とも闇とも言える想いのすべてをジャッジすることなく外に出せたら、目の前の人からも引き出されるものがあり、たとえその時ぶつかり合っても、後腐れなく瞬間を生ききったと言え、そして、その経験は確実に相手との仲を深める。それは、娘との実体験を通して言えることだ。


あ、なんか思いがけず話が広がった。

自分のために良い記事が書けたな、なんて、思ってる。







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胸の奥に押し込めた想い