シュリ日和

まいにちに生きる

どうしても

 

今日(昨日)は、朝から生きた!と思える一日を過した。

寝起きからすぐに水も飲まずに、家中の掃除を始め、床の水拭きから網戸のサッシなどの細かいところに至るまで、なんかとにかく手当り次第に掃除をした。そして、AM10:00からはバリ島でヨガをやってる人たちのライブ配信に参加して、めちゃくちゃキツいポーズで呼吸をしたり、普段絶対にしない姿勢をして、ヨガのマントラ?を唱えたりした。

お腹が空いたので、2日連続で春キャベツのペペロンチーノ(材料費約50円)を作って食べてから、最近ご縁のできたある方のプレゼント企画セッションを受け、その方の秘技により、魂のやりたい事なんかを透視してもらったら、『まだ闘い足りてないみたい。愛のためにやりたいみたいよ。』なんて事を言われて苦笑した。愛のために本気で全身全霊込めて闘った結果、ちゃんと死んだ(殺された)経験があるため、もうこれ以上やりたくない。もうこれ以上…と思っているのは、健在意識の私なのだろうか?

今回無償で受けたセッションのなかで最高だったのが、その方が「いいですか?これから私とても酷いこと言いますよ。」と、にこやかに優しい声で言った後に、「〇っ〇ー!〇〇!ってそういう時は心のなかで言えばいいんです。」と歯に衣着せぬ発言をしてくれた事だった。こういうアドバイスを受けたのはここ最近で3度目だ。

私は心のなかでさえ、悪い言葉を思ったり、言ったりすることにずっと抵抗があった。それをすると、なんだか自分が廃るような気がしていたから。だけど、誰かの何かに怒りが沸いた時、すぐにそれを終わらせないと、モヤモヤとした思いは不完全燃焼のまま怒りの種火として心に残り続けてしまう。消えてない怒りがまだ2つはっきりとあることを自覚した。

あの時もあの時も、愛のためにちゃんと闘い抜きたかった自分を裏切ったのかもしれない。

強がりに気づいても、どうしても許せない過去の自分とまた出会ってしまうことを恐れて、誤魔化しているのかもしれないことにも気づいた。根本的な部分を乗り越えられていない。

感情的な自分。激情型な自分。持て余すほどの想いの丈。大嫌いだった父親(の悪いところ)と似ている自分。素直になれなかった子供時代。

誰かに聞いて欲しい。ほんとは一番聞いてもらいたいことをずっと隠してる。口にしたら感情がバグってヤバいことになるのは目に見えているから。

 

私は睡蓮(蓮)という花を尊敬している。

蓮は泥の中で育ち、あんなに美しい花を咲かせる。醜い泥を大きな葉で覆い隠し、美しい姿だけを人の目に見せてくれる誇り高さがある。醜さの部分を見せないところに惹かれる。醜さがないのではない。あるけど見せないのだ。それは喩えるなら、傷口を縫い合わせながら懸命に生きざまを描く画家のような気高さとも似ている。すごく悲しい詩を明るいメロディーで表現してみせるミュージシャンの笑顔のようとも言える。大きな笑顔の裏にある傷の痕跡は目には見えない。だけど、それは確かに感じとれる。この人は傷だらけになったことがあるということを。これはきっと私の、人の生き様に対する美学の問題に精通している。

''ひとりだけどひとりじゃない''

それを味わい尽くすために生まれてきた魂だというようなことを以前に言われた。私はそれを聞いた時に、絶望の奥深く、中心にある一点に、小さな小さな希望の光を感じた。その光はほんとうに小さくて微かで今にも消えそうなほど弱く瞬いていた。

そう、ひとりだけどひとりじゃないの先にあるものが何かを知りたくて生まれてきた。

私は、ひとりだけどひとりじゃないで終わりたくなどない。それは、魂の目的がどうとか、そんなこと一切知らない。今ここに生きている私の希望のために、ここまで現世を生き抜いてきた私のために生きたいのだ。

勘のいい人なら気づいていると思うが、私が言っていることは、究極に矛盾している。美学を貫くということは、私を生きることとイコールになっていない。美学を守り抜くことを選ぶと、今ここの私を生ききることができない仕組みになっている。私の異常なまでの愛に対する正義感は、人間の生き様の美学に直結している。このことは、おそらく個人単位のものを超え、日本という国の過去生と関係していることは否めない。

 

美学など、桜の如く潔く散らせ、全てを投げ打ってでも、シュリを活かす道を選びたい。

シュリを活かす道を選べる私でありたい。

この命をこの私で生きたい。



生まれ変わりたい。

 

 

 

春分目前