シュリ日和

まいにちに生きる

身体

 

12月最初の土曜日だ。

今日は銀座の外れにある、小さな映画の試写会会場へ行く予定。その映画に出演されている原初舞踏という分野で活躍されている小柄な女の人の存在を知ったのはつい最近のこと。現代魔女の身体のワークショップをやられた方たちのつながりで、Xのなかで見つけた。

今年受けた信頼しているエナジーワークをされている方々に視ていただいたリーディングを通して、私は自身の過去生の体験のひとつに、巫女舞(神様へ捧げる舞)というものをやっていたことと、さらには、身体を愛せない、身体は穢れている、といった教えのなかで生きていたこともあったらしく、身体に対する意識が薄いと指摘してもらった。愛する人が先に死んでしまった時は、肉体から離れて(幽体離脱?)既に肉体のない相手と交信することもしていたらしい。(全て女性の過去生)

これらの内容は自分でも腑に落ちるところがあり、今生も身体というものに対する意識が薄いのは、そういった輪廻が関係していたことを知れたことは私にとって意味のあることだった。

例えば、女の人が美しくなるためにお金をかけたり、貢がれたりすることも多いと思うのだが、反面、私のように美しさのために自分にお金をかけることを躊躇う人も少なくないのは、やはり似たような過去生の経験をしている人がいることの証とも言えそうな気がする。美しくなることへの恐れ。簡単に愛されることによって孤独になってしまうことへの潜在的な抵抗。大きく引きで云うならば、地球の人間の歴史の中で女性の身体が体験してきたこと

舞踊と舞踏の違いを説明できるほど知識はないのだけど、舞踊は振り付けを覚えれば今の私にもできるはずで、ただ、舞踏というものは、人間とか身体とか時間とか宇宙的な何かが関係していて、とても今ここに生きている私という個人(シュリ)限定で興せるものではなさそうなところが、惹かれる所以だ。

瞑想して無になった状態で身体がどんなことを興すのか、私の肉体が何を現すのか、、そんなこと考え出すのは怖いんだけど、それをやってる人の話が聴ける(試写会後にトークの時間があるので)のは正直稀有な体験になりそうで、ドキドキしている。

 

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観た映画の映像と音楽の力は、ちょっと今迄に体験したことのない新しさを感じた。遠い昔に失われた記憶に睡る大事なものに訴えかけてくるような、心の奥深くを揺さぶられるような、そんな感覚。言語化できないものの存在を映像を通して見させられたのだろう。

う〜ん、なんかうまく言えないや。

非日常に迷い込んだ気分のまま、試写会会場を後にし、教文館のクリスマスフェアに向かった。佐野洋子さんの''わたしクリスマスツリー''という絵本の原画展をやっていて、見て回った。佐野さんの描く絵の自然や動物たちがとても可愛くて、色使いも本当に好きな感じで、夢中になっていたら、そのまま日常に戻っていた。

クリスマスってなんでこんなに毎年わくわくするのだろう。

銀座の町はどこもかしこも、クリスマスの装飾に彩られ、華やかなムードで満ちていた。舞踏の世界観とは完全に真逆だ。

原初の記憶と、今を生きる私。

共に手を取り、先の景色へと向かえるだろうか。

明日は12月最初の日曜日だ。

 

 

 

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