シュリ日和

まいにちに生きる

たけしと松ちゃん

 

ビートたけし(北野武)と松ちゃん(松本人志)の事を考えてみた。

 

お笑い界の頂点に立った経験のある2人。今回の松ちゃんの騒動においても、比較されたりしている(一部で)

真実なんてわからない。

だけど、それまでのその人の発言や行動や芸に現れていたものから、ある程度その人の真の姿を想像することはできる。

私は、この2人の大きな違いは親にあると思う。特に母親

たけしは母親のことをずっと尊敬していると発言してきている。この世に生まれて初めて異性との関係を築いた母親が尊敬できる人物であったことは、その後の異性に対する態度に大きな影響を与えると私は見ている。

先に言っておくと、私はたけしも松ちゃんも好きだ。だけど、女の私が異性として惹かれるのはやはり、たけしの方なのだ。

若い頃松ちゃんの本は結構読んだ。潜在的に自分には松ちゃんと同じ要素がある気がしていたんだと思う。だから、本のなかで印象に残ってるエピソードもいくつかある。

例えば、3人兄弟の末っ子である松ちゃんは、お茶の間でおとんが兄のことをこれみよがしに贔屓する発言をした時に、おかんが「私は子どもたち3人共全員かわええ!」と返したことに対して『おとんが兄貴さえいたらええって言ってんのやから、お前は俺が一番かわええ!って言うべきやろ。』という思いを抱いたという件。

ここでは、おかんの言い分も松ちゃんの言い分もそれぞれに理解出来る。

おかんにしたら、お姉もいるし、お兄に対しても、ここで松ちゃんだけをかわええとは言ってはいけない場面だ。それしたらおとんと同じやん!てなるから。言うとしたら、松ちゃんと二人きりの時。それなら問題ない。

本来なら親って子どもを育てる側にいると考えたら、子どもより一歩も二歩も先に行っていて欲しい存在なのに、その親が自分の親にされた事を自分の頭で考えることもせず、そっくりそのまま同じように反芻してしまうから、負の遺産は子育てを通して連鎖を繰り返す。

それとか、親がいなかったとか、満足のいく愛情をかけられず(感じられず)に育った場合、愛情不足による弊害が生まれ、恋愛や結婚にもその影響は及び、お手本となる親像(父親像、母親像)がないまま親になってしまったことで、人間的に成熟できていないから感情のままに振る舞ってしまったり、情報を鵜呑みにして本質のない空っぽなのに体裁だけ整えた親の振りをしたりしてしまう。賢い子どもならそれをすぐに見抜くだろう。

…というのは何を隠そう、過去の私の話である。

話が脱線してしまうので、敢えて私の経験を語ることは控えるが、たけしの母と松ちゃんのおかんでは、たけしの母の方が人間として成熟していたのだろうと思う。

もちろん、松ちゃんのおかんが悪いわけでもないんだけど、松ちゃんは男性原理社会のなかで松本人志という芸人として絶対成功したい!って野心があったのは、おかんが大好きだったから、おかんに認められたいとか喜ばせてやりたいとか、そういう想いは少なからずあったと思う。両親が仲良かったかどうかが、とても大事なポイントだと思う。親同士が勝手に仲良ければ子どもは親のこと気にかける必要なんてないんだから。

松ちゃんは、人間松本人志として生きることよりも先に、芸人松本人志を生きてきたんだと思う。おじいちゃんがつけてくれたという、人志(人を志す)という名前にも意味がある気がするんだよなぁー。本人も気に入ってるって言ってたけど、松ちゃんの魂(インナーチャイルド)は、ちゃんとわかってたと思う。だけど、気がついた時にはもう、芸人じゃない松本人志が分からなくなってたんじゃないかな?

多分松ちゃん(芸人松本人志)のアイデンティティが確立したのは、中学の時にクラスメイトの前で披露した漫才がばかウケして、無敵になった時にあるんだと思う。面白いことやって人を笑わせることのできる自分、人から求められる自分、それが生きる指針になってしまったんだろうと私は推測した。権力やお金を持つことで物質的な成功や、女を物質のように手に入れても、人間の心は真に満たされることはないだろう。それが男性原理(社会)の最も大きな弊害だ。

ここにもたけしとの違いが見える。

たけしは、芸人ビートたけしになる前に、人間北野武が確立してたんだと思う。それは、親や環境による背景が大いに影響しているだろう。たけしには本当の友達や仲間や家族のような人達(軍団)がいた。人に恵まれていた。

近年には、長年別居してた下積み時代を支えてくれた奥さんと離婚して、ただただ自分の幸せのために再婚して、所ジョージと奥さんのようなラブラブな関係を目指したい!って再婚したのも、凄いなって感心した。

この男性原理社会の中で成功した人が、諸々全部投げ捨てて自分の幸せを一番に求めることができたのも、これまでいろんな人たちの父親代わりをやってきたからこそって感じられた。

…松ちゃんはさ、怖かったんじゃないかな?全盛期の勢いで人を笑わせることがだんだんできなくなってきて、別にそれは芸人て意味で言えばたけしも同じだと思うけど、そもそもたけしは自己が確立してるし、あの大事故を境にクリエイティブな才能も開花したし、芸人ビートたけしはひとつの側面でしかない分、気はいくらか楽だっただろう。

でも、松ちゃんは芸人としての自分にしか価値を見出してこれなかったから、素の自分には自信がなかったんじゃないかな?

皆んなに笑いの神様扱いされて、芸人の世界なんて思いっきり縦社会だろうし、自分の上(そもそも上なんてことがおかしいのだが)にほとんど誰もいなくなった状況で、芸という鎧を着た自分をみんなが囃し立てたり祀りあげることで、その半分虚像の自分を、イメージを守らなきゃいけなかったのかなって。色んな圧力もきっとあったことだろう。

映画だって先にたけしがやってたし、海外でもあんなに高く評価されたから、どうしたって比較されるし、常に笑いを軸にすることに相当な無理がきてたと思う。(でも、私は松ちゃんの映画'さや侍'が大好き)Xの投稿の短い言葉からさえもそれは感じとれた。弱い自分をさらけ出せないから(Xの投稿からは弱さしか伝わってこなかったけど)強がるしかなくて、いっぱいいっぱいだったんだろう。

身体を鍛える人は気が弱い人が多いと思う。私の父親もそうだった。父はボディービルのジム?に通っていて、三島由紀夫が同じジムにいたという話を昔聞いたことがある。私はマッチョな父の体に潜在的に嫌悪感があった気がする。よく分からないけど、父のつくられた筋肉の動機が、弱い自分を隠すためのものであり、男の強さの象徴としての見せかけのシンボルのように感じられたからかもしれない。

本当の強さはつくられた筋肉には宿らない。精神にしか宿れないのだと思う。

私は松ちゃんにはある意味、時代の犠牲者のひとりとしての側面を見ることもできると考えてはいるものの、自分の目指す理想の男と女の関係性が機能する社会(縄文の頃とか?)に世の中を生まれ変わらせるためには、これまでの負の連鎖は完全に終わらせたいという願いは変わらない。

 

人は変われる。

自分次第でそれまでどんな人生を歩んできていようと、自分の意思ひとつで今この瞬間にも変わることはできる。

私は人間松本人志が好きだから、これからの松ちゃんに期待している。きっと、子どもの頃好きだったヒーローが怪獣にめためたにやられたところから起死回生する、そんなストーリーを展開してくれるはずだ。その時に初めて''人志''という名前が本来の輝きをもって活きてくるだろう。

 

想像力でこんなに勝手に大物2人を分析して(全然まだまだ深掘れるけど)話を展開させてる自分を''どうかしてるぜ''と思わなくもないが、これを書いて確信した。

 

私はやっぱり人が好きだ。

あるがままのあなたが好きだ。

 

そう人に言いたいし、これからの人生堂々と女を生きたい。だから、男にもどんな自分であろうと、堂々と生きて欲しい。

女は芯が強いのだ。舐めてもらっちゃ困るのだよ。本当は弱い男を抱きしめることはできる。だけどそれはとても表面的で刹那的なことでしかない。私は男に生きることの喜びを心底味わって欲しいのだ。

 

だから、抱きしめられにいこうと思う。

女として、男に。

 

 

 

 

水仙 二輪