シュリ日和

まいにちに生きる

随筆

家で断捨離をしていたら、いろいろとまだ捨てきれていないものが出てきた。

特にノートの類は、隠れていた隅の方で散乱錯乱状態で見つかる。

ひとつ見つける度に、ペラペラとめくりながら、乱雑に書かれた詩や日記などを読み返してしまい、そこに手を取られる。

ひとつ、わたしがまだブログを始める前に書いた随筆のような文章を見つけたので、ノートを捨てる代わりに、ここに書き残したいと思う。



**


熱海駅前 足湯にて


人生の夏休み。

念願のひとり暮らし2日目早朝。

神社をお参り後、駅前までのんびり散歩をする。時刻は8時。


早い。

一体何時に家を出たんだっけ?


初日の夜は風が強く、一晩中戸がバタバタと鳴き続けたため、よく眠れなかった。

それでも空が明るみだし、鳥たちがおしゃべりを始めた頃には気持ちは外へ。

伊豆山神社へと向かっていた。

一段、一段に集中し、心を込めて境内へと向かう。

夏の大祓。茅の輪が設えられていた。

説明文を読みながら、輪を中心に左から右へと、無限のマークを描きながら歩く。

いい気分だった。


つい今しがたのお参りに思いを馳せ、足湯に足をつけていると、わたしの隣りに60代くらいに見えるおじさまが『隣りいいですか?』と言いながら腰を掛けた。


柔和な雰囲気の方である。


『これからね、大島に行くんですよ。小学校3年生まで住んでた島。 』


「へぇー、大島ですか。熱海からフェリーか何かでですか?」


『うん。高速ジェットってやつで。45分くらいで着きますよ。』


「そんなに早いんですね。知りませんでした。」


『普通の船なら2時間くらい。日帰りで行ってきます。』


…自然だ。

なんとも自然な会話の始まりと流れ。

都会ではこうはいかないだろう。


例えば公園のベンチに先客がいた(自分が座っていた)として、二人がけの椅子の隣に『いいですか?』と話しかけることも、話しかけられることもまず無いだろう。

都会では二人がけの椅子は先に座ったおひとり様用という、暗黙のルールがある。

それに何より、いきなり見ず知らずの人に話しかけるという行為自体が、危険を伴う空気を孕んでいる。

そういった背景により、みな、他者から話しかけられる機会を生む隙を作らない。

人と人との間に、会話が入り込む隙がない都会では、このように自然な会話が生まれる可能性は低い。


おじさんは続ける。


『自分が子どもの頃過ごした島に何か恩返しのようなことができないかと思って、数年前、発電所を作ったんですよ。今日は点検の日で立ち会うことになっていて。』


発電所作られたんですか?素晴らしいですね。きっと地元の方たち、便利になって喜ばれているでしょうね。」


『どうかわからんけど。お世話になったからね。

…大島にはね、あまり知られてないんだけど、砂漠があるんですよ。そこがね、最高。車でぐるっと回んなきゃいけないんだけど。』


「大島に砂漠があるんですか?それはみんな知らなそうですね。」


『いいよー。あそこは。あ、これね、飲み屋のおやじの写真なんだけど、あげようと思って。』


そう言いながらおじさんは、徐に鞄の中からA3ほどの割と大きめなサイズの箱を取り出し、中に入っていた、飲み屋のおやじと思われる方が写ってる写真を、わたしの目の前に広げた。

ピントがぼけていて、決していい写りではなかったが、大島の砂漠をバックに、飲み屋のおやじが笑ってる写真だった。

いい写真とは言いがたかったが、これをもらったおやじが、この写真と同じ笑顔で『ありがとうね。』と言ってる光景が、薄らぼんやりとわたしの脳裏に浮かんだ。


おじさんはその後、視線の先に足湯利用者のためのタオル販売機を見つけ、『あ、あそこでタオル売ってたんだ。知らなかったわ。買ってこよう。』と言って立ち上がり、タオルを買いに行かれた。


わたしはなんだか嬉しい気持ちでいっぱいだった。

何気ない人との触れ合い。ほんの数分の会話の中で、相手の人生の一片を垣間見たことの感動。今日、いま、ここにいたからこそ、出会えた感情。

わたしは人との触れ合いが好きなのだ、と思う瞬間だった。


タオルを買って戻ってきたおじさんは、『さあ、そろそろ行くね。』と言って、ゆっくりと丁寧に足を拭き、靴下とスニーカーを履いた。身支度を整えたおじさんは、わたしに、『はい、これ。他生の縁てやつです。』などとさらっと仰り、タオルを差し出した。


嬉しい気持ちにタオルまでついてきて、なんていい日だ!と、目を輝かせたわたしの『ありがとうございます!』をきちんと受け取ってくれたか、くれないかわからないまま、おじさんは、ニッコリとした後ろ姿でその場を立ち去った。


熱海駅前足湯にて。

時刻はまだ8時過ぎ。

良い一日がスタートした。



**



ほんの数年前のことだけど、とても懐かしい。

わたしはあの頃、まだまだ自分を探していて、人生の夏休みなんて言いながら、何もかもを楽しめなくて、気がつくとそれまでの日々のように、''頑張らなきゃ''って、来る日も来る日も修行に時間を費やした。

すでにある恵に感謝する余裕は無く、見せかけの充実を装い、いつも自分を見失った。

あの果てしない孤独は、わたしがわたしに寄り添い尽くしたことで、いまはもう消えた。


ひとりではできなかった。

いつも心に愛する人がいた。


わたしは、ほんとうは孤独ではなかった。

いつでも見守られていた。

愛して欲しかった人から愛されていないと思い込んで育ったことが、孤独の原因。


いつでも、ほんの少しだけ甘えたかっただけ。素直になれなかっただけ。


ただそれだけのこと。




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愛する